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ジジェク - FRANCE3 

「脆弱な絶対」の出版(仏訳)プロモ。人のことは言えないが、ジジェクのフランス語もかなり訛っているので、ヒヤリングに多少難あり。前半はコールべと現代絵画、フレーム論~ヴィトゲンシュタインのマスターベーションの話まで。(削除されました。)

コソボ情勢とカストロ。キリスト教的遺産。
ヨーロッパの無意識はバルカンのように構造化されている。



スレッド:フランス語 / ジャンル:学問・文化・芸術

2008.02.29[Fri] Post 10:51  CO:0  TB:0  文化  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

アラン・バディウ Rue89での対談

Rue89というニュースサイトが企画収録したバディウの新しい対談映像が、先月末からDailymotion経由で見ることができる。<DE QUOI SARKOZY EST-IL LE NOM ?>でも展開されている、バディウが擁護する「コミュニズムの仮説」や「68年」という出来事については、FR3(10/25)を始め、ユマニテ紙(11/6)、Obs(11/21)やBFM(12/14)などで行った対談でもすでに言及されているので、重複する部分も多いが一見の価値はあると思う。俗に言う「ヌーヴォー・フィロゾフ」(死語?)らとは一線を画し、普段はメディアと距離をとっているバディウが積極的に依頼に応じているのも、当初は弱小出版社を支援するためなどと冗談を言っていたが、やはり市民・労働者運動の末に獲得してきた歴史的・社会的諸権利が、サルコジによって悉く清算されつつある現状を、黙って見過ごすわけにはいかないというのが本音だろう。

今年に入ってからサルコジの支持率は急降下した。選挙公約でもあった購買力の問題が一向に改善されないことや、私生活の衒いなどが主な原因であると言われている。来月には統一市会議員選が行われるが、激戦区にいる保守派候補からは、支持率が低下している大統領に対し、選挙運動にはあまり関与してもらいたくないという声があがっている。国会でのカラーを決める統一選ならまだしも、大統領が地方選にまで干渉することには疑問である。しかしながらサルコジは、ある時は関与すると関与すると言ってみたり、その二日後にはしないと言ってみたりと、一貫性のない発言を繰り返している。世論調査の結果を常に気にかけていると言われるサルコジも、さすがに急激な支持率低下には当惑しているようである。私生活の極度な露出に関して、年金生活者層から特に批判的な声があがっていることから、急遽、約60万にのぼる低年金生活者を対象に(たった)200ユーロの特別手当を支給することを発表した。年頭の記者会見の席で一向にあがらない購買力についての質問に、「国庫が空なのに、どうしろと言うんだ?」などと、しらばっくれていたのは、つい1ヶ月前のことである。調子が悪くなるといつものように、得意のばら撒きでその場凌ぎというわけだが、余計に不信感を募らせるやり方である。これまでひとつの問題に世論を集中させないためなのか、次々に新しい話題を振りまくことで、よく動く大統領のイメージを与えることには成功していたが、どうやら徐々にそのイメージも剥離していく傾向にあるようだ。市民が望んでいるものは、結局のところ、サーカスよりもパンの方である。イメージアップを計っても、今後は購買力が改善されないことには、サルコジの支持率は上昇しないと思われる。そもそも始めから、それが理由で選出されたので当然と言えば当然なのだが、単純に給料を上げればよくなる問題でもなければ、奇跡的な解決策が望めないだけに、これからも苦戦を強いられるだろう。これまで首相以下を差し置いて、自分だけに注目させようとしていた戦略は、非常にリスクがあるように思われる。万事良好な状況では手柄を独占できるかもしれないが、反対に逆風が吹くなかでは一切の責任を負わざるを得なくなるからだ。閣僚に結果主義を推進し、通信簿までつけると言うのなら、辞任もしくは下院解散・総選挙など、自分に対しても何か課してみるのがいいだろう。

バディウの書が出版されたのは10月の末であったが、その頃は今とは全く異なる雰囲気のなかにあった。大統領就任して半年ぐらいのあいだは、批判・反対意見がほとんどメディアに現れないほど、一切がサルコジの思惑通りに進行していたような勢いがあった。慢性的な「事なかれ主義」に浸っていた精神状態を立て直すため、本来ならば首相がやるべき事柄も自らが引き受け、人一倍働く大統領のイメージをあらゆるメディアを通じて形成していたわけである。問題があるところに真っ先に姿を現すサルコジの動向に、挙って追従する報道関係者らは、まるで芸能リポーターと代わり映えがしないようだった。どこに行ってもサルコジの話題ばかりでうんざりしていたあるメディア団体が、9/10には「サルコジ報道ボイコットの日」を11/30に決行することを呼びかけることになる。一方で、サルコジが着々と改革を進めている間、敗戦ムードから抜け出せない左派は、野党としての役目を議会で果たせずに、それぞれの党内部で生じた諸問題を解決することに追われていた。特に、サルコジによる自党からの引き抜き戦略などによってもっとも打撃を受けた社会党の混乱ぶりは激しく、党を団結させる明確な政治指針の喪失からリーダーの不在も相まって、少なくとも三つの派閥に分散している状態が未だに続いている。「この国に野党は存在しないのか。社会党は何をやっているのか。」と、新政府の改革に反対する市民からの怒りの声が各方面から挙がるようになったのも、ちょうどこの時期である。バディウの問題の書は、左派支持者にとっては、サルコジに完全に翻弄されていたメディアや、お家騒動の方に忙しい社会党に対してなかば呆れかえっていたときに出版されたために、陰鬱な状況を打開する起爆剤のようなものとして、すぐさま熱狂的に受け入れられることになったのである。
11/3にはジャン・リストがユマニテ紙(前出の対談とは別記事)から、11/6にはパトリック・ベッソンがル・ポワン誌から、それぞれ好意的な書評を書くことになる。着実に読者数を増やしているバディウの問題作は、すでに20000部売れ、現在も増刷しているようである。この手の書では異例の部数で、出版社以上に本人も驚いているということは、どこかの記事に書かれていた。「サルコジ」というお題で書を出せば、どんなものでも売れるなどという、他人の成功に対する妬みからなのか、冷めた意見を耳にすることもあるが、ここではサルコジその人が問題ではないので、その他諸々のサルコジ本と同じようには扱えないだろう。いずれにせよ、これだけ反響を呼べば、内容自体にはまったく無関心な陣営にとっても、黙殺しておくことは出来ない現象というわけである。最近ではフィガロ紙までもが、おそらくバディウが考える「ねずみ男」の代表格セルジュ・ダッソーによって、何か書評めいたことを書いておくよう命じられた次第である(1/17)。書評とは名ばかりな悪意ある批判は、ネット上でも多く見かけるが、その大半は、少しばかり挑発的なバディウの語法に噛み付いているだけである。サルコジとその仲間たちを「ねずみ」呼ばわりしたとか、フランス的例外の創造的運動のもう一方の極には「ペタン主義」があると診断しているとことがスキャンダルということだ。また、五年毎の一大政治イベントに大衆が熱狂しているさなかに「棄権票」を訴え、「未来はコミュニズム」などと宣言していること、さらにはそういったドグマ的テーゼを、将来の上級官吏育成機関でもあり、国が誇る最高学府・高等師範学校(ENS)の連続セミナーで展開していたこと自体、スキャンダルであると批判する者もいる(11/28)。(本書はENSのセミナーをもとに編纂されたものである。)どうもたんなる非時世的な老哲学者の戯言では済まされない、寛容の閾を超えてしまったということだ。
しかしながら、人間のある主体性の形態を動物に喩えること自体、それほど騒ぎ立てるようなことではないだろう。哲学者とはまったく異なる目的からであるが、人間の生を動物のそれと同じように扱うことしか知らないような政治家の方がもっと批判されるべきである。例えば、先の国鉄職員など一部の労働者らに対する特別年金制度の改革の折に、うんざりするほど聞かされた、平均寿命が延びたとか、一般制度の積立期間が40年なのに37.5年は不平等だとか言ってみることが、人間の生にとってどれほど価値があるのだろうか?サルコジの息のかかったマスコミも、今回はかなり煽っていたせいもあるが、政府の改革に賛同していた多くの市民も共犯である。任意の数字を引き合いに出すことで、改革の正当性を立証しようとする政府のディスクールには、生も含めた一切は資本による均質化された時間によってだけに測定されるべきだという思想が、いたるところに見え隠れしていたのである。質的なものは考慮にいれず、生をただ数量的観点から一様に扱うときは、いつでも人間を動物として、あるいは畜群として扱おうとする意志があるのだ。これと比較すれば、哲学者が生物学的種としての人間をある条件のもとで任意の動物に喩えたりすることは、その目的から判断するかぎり、公平な仕方で事にあたっているだろう。ホッブスのおおかみ、ニーチェのロバなど、例を挙げたらきりがないが、哲学者はそうすることで、自分の利益を守るためなら人を殺すことも省みない生の在り方や、既存の権力に無反省にしたがう生の在り方などを、ただ嫌悪すべきものとして告発しているだけである。ここにおいては、おおかみもロバも、人間がそこへ向けて主体化するような到達点としてではなく、何か乗り越えるべきある通過点、それを超克することが真の主体化であるようなある臨界点として考えられている。バディウのねずみも、これらと同じ類であって、生存競争を超えたところで人間を形成する諸価値を創造できない在り方や、そういった諸価値に対して反動的な生というぐらいの意味で理解されている。このことは「倫理」のなかでは、たんに「人間という動物animal-humain」とか「死を免れないもの」とか呼ばれている。(いつだったか忘れたが、あるセミナーのなかでは冗談交じりに「レギューム」などと言っていた。)ここで「ねずみ」という特定の動物が登場する理由は、フランス産の人間なる動物が、フロイトの「ねずみ男」の症例にあてはまるからであって、それ以外の何ものでもない。例の幼少期から強迫観念に悩み、ケツの穴からねずみが侵入する妄想に駆られる男の話である。バディウが診断する「ねずみ男」も、フロイトの患者に劣らないぐらい激しい強迫神経症を患っている。それは社会保障の穴なのか?それとも移民の問題へと還元させているようなセキュリティーホールなのか?彼らの悩みは、制度上に穴という穴を開けつづけている「68年5月」という出来事であり、その出来事のうちで具体化した「コミュニズム的仮説」であり、さらには現在でもそれに忠実でいようとする亡霊たちである。

68年5月を清算しよう!このスローガンが投じられたのは、決戦投票を一週間後に控えた4.29の集会でのことだった。パリで行われる最後の大集会ということもあり、サルコジを支持する著名人や芸能人も多く駆けつけた。学生の時分に「舗石の下は浜辺」と叫びながら、権力の象徴に向けて投石していた者らもいた。68年との断絶だ!一次選の結果からサルコジ大統領の就任は、ほぼ当確と言われていたことを考えるなら、これは勝利宣言ともとれる発言だろう。これを聞いたねずみ男たちは、一気に元気をとりもどし、長年彼らを悩まし続けた強迫観念から解放されたと感じたのである。選挙期間を通して何度も力説していた内容を、左派のシンボルともいえる68年のもとで総括することで、敵陣をノックアウトすることに成功した。治安、失業、移民、教育、労働、医療、環境、住居、家族、アイデンティティ。。。フランス社会が抱えるこれらの問題すべては、68年の左翼的思想に拠るものであり、改革を望むのであるなら、今こそそれと断絶する必要があると、サルコジは言う。68年がすべてを台無しにしたとは、くそみそ的な発言である。そもそも68年とはどういった出来事なのか?管理社会に対する若者の反抗のことなのか?労働者によるゼネスト?あるいは、性の解放に代表されるライフスタイルに関する革命なのか?いずれにしても、これらの形態でもって表現されている、政治的なメッセージなどは、サルコジには興味ないことである。それが生起したことの理由や背景などは関心を示すことなく、ただねずみ男らが当然主張できると思っている権利が抑圧されている現状と、出来事がもたらした自分らにとって不都合ないくつかの帰結だけが問題なのだ。サルコジは言う。68年とは、それまで社会を秩序立てていた権威的なものの破棄、善悪を区別するために必要な指標を葬った事件であると。68年は、一切を相対化することに成功した、諸権威に対する反抗の名であって、あらゆる分野でモラルを低下させた、現代フランスにおける道徳退廃の零年であるということだ。でも、果たしてそうなのか?
ねずみ男らの言い分とは裏腹に、68年の出来事で重要となることは、善悪の彼岸の問題ではまったくないとバディウは言う。なぜならそれは、善悪の区別を明確にした出来事であるからである。この出来事は人民によって企てられた様々な政治運動の形態をともなって生起したのだが、これらすべての運動に意味を与えているもの、つまり出来事のなかを横断し、それを統制しているひとつの政治的理念を理解することが重要であると、バディウは言う。それは平等という理念である。TV対談でも強調されているが、この理念を思考するのでないなら、政治活動などまったく名ばかりであるとされる。したがって、もし68年の出来事から、何か政治的なものを引き出そうとするならば、平等という理念の相で、人々がそこに何を求めていたのかを理解する必要があるという。バディウによると、それは「ただ一つの世界がある」という「コミュニズム的仮説」の探求であり、諸々の状況を超えたひとつの世界への成員に主体化すること、それこそが68年の問題であったとされる。この仮説が要請する世界は、ねずみ男らが望んでいる世界とは相反するものであり、まったく妥協する点は見当たらない。それというのも、彼らが要求する世界は、まったく反対のこと、労働力から生産物を切り離し、人間のつながりをただ貨幣という抽象的な単位でのみ評価するような、物質的なものだけを通してコミュニケーションを強いる世界だからである。あるがままの状況を保全しようとすること、これを拒否するのがコミュニズム的仮説である。なぜなら、現実にある世界は、ルソーが言うような意味で、自然的な不平等が社会的な不平等へとそっくりそのまま保全されているような世界でしかなく、いたるところで分裂している世界でしかないからである。世界が分裂している現実は、何か人類の必然的な運命であるとでもいうような保守的な態度に、コミュニズム的仮説は真っ向から対立するのである。したがって、ここから政治的に保守ということは、どういう意味で理解されるかという、ひとつの帰結が引き出される。あるひとが保守的であるといわれるのも、既得権などを自分の利益のために保持することを要求する人というだけでは、いまだに不十分である。そうではなく、自分らの利益が確保されるためには、これまで通り世界が分裂している必要性を、ひとつの前提として要求する者のことを言うのである。それは、生きるためには仕方なくフランスに来る移民に対し、まるで別世界から訪れた厄介者のように扱ってみたり、世界で起こる問題の数々が、自分がいる世界とは異なることろで起こっていると見なすような態度にも表現されている。なぜ別世界なのか?分裂なのか?自分に対してそう言わせているものは何なのか?世界は一つなのか?結局、政治とは二つの問いの関係のなかでのみ成立する、ひとつの有意義な活動としてしか規定されないだろうと、バディウは言う。それは、われわれはどういった世界にいるのか?という状況を分析する問いと、どういった世界を望むのか?という規範的な問いのあいだでの活動であり、一方から他方へと移行させるような手段を思考し、実践するような主体化のひとつの形態でしかないという。政治にとって重要なのはいつでも平等という理念であり、それ以外のものはなにもない。なぜなら、理念としての平等が、まさに政治活動を規定する問題であるからだ。
してみれば、コミュニズム的仮説の放棄、68年の清算は、政治そのもの否定であるとも言える。このことはモラルだろうが、新年の記者会見で掲げた文明だろうが、何を引き合いにするのも勝手だが、政治というものが人間を畜群化するための権力の行使などと、いまだに真面目に考えている連中には理解されないことである。国内の不安定な状況を、自分らのことは棚にあげ、それに先行する人民の運動へと転嫁すること。また、この状況の打開策を、ひとつの時代を支配しているもっとも権威的なものへと、モラルを掲げることでコミットすること。さらには、他の国もしているのだから、自分らもそうしない理由は見当たらないと言ってみること。これらすべてが「サルコジ」の名に集約される現象で、バディウが「ペタン主義」と呼ぶものである。フランス革命に対する1815年の王政復古、フロン・ポピュレールに対するヴィシー政権。これらに共通することは、先行する出来事の否認、反動でしかないとバディウは言う。グローバリゼーションが進行する現在、市場原理を重視しない経済システムを擁護しないわけにはいかない。さもなければ、フランスは国際経済の舞台から遅れをとり、ますます世界から置いていかれるだろう。ねずみ男以外に誰がこんなことを信じるのか。「68年5月以降、政治の舞台からモラルという言葉は消えた。今ことモラルについて語るべきだ」などと、大それたことを唱えるサルコジが、大統領就任後にこれからの時代はしかるべきだと示しているお手本は、ヨット、ローレックス、トップモデルという類である。彼が口にするモラルとは、働いて金を稼ぐことが最大の美徳であり、資本主義の価値体系で通用しているものを人より多く所有することが成功というわけだ。「私は人一倍働いた」は、サルコジの口癖である。こういうことは、歴史が裁定することであって、後に、誰かが伝記のなかでその人の偉大さを称える言葉でないのか。たかが40年ぐらいの歴史を切り取ってきて、「断絶」などと偉そうに言ってみたところで、君主制や寡頭制など歴史的にももっと古い体制下へと、逆戻りさせているのが現実なのである。
結局、ねずみ男とは、株価の動向だけを気にしている連中や、富を築き上げることの美徳を公然と口にすることが可能になることに喜んでいる連中ぐらいの意味でしかない。一度は68年で悪の側に追いやられた連中のことである。フランスにおけるねずみ男の心理がどういった状態であるのかを知るには、実際に彼らが語っていることを聞いてみるのが一番である。現在それについて語らしたら、おそらくセルジュ・ダッソーの右に出る者はいないだろう。 UMPの上院議員でルベイユ・エッソン市長も兼任するダッソーは政治家としてよりも、むしろミラージュやラファールなどの戦闘機で有名な、軍需産業を母体 にするダッソーグループの総帥として世間には知られている。2004年にはフィガロ紙やレクスプレス誌(これは後にベルギーのメディアグループ「ルラータ」に売却)をはじめ、ヴォア・デュ・ノー紙(2005年に売却)やル・プログレ紙など複数の有力地方紙を傘下におくメディアグループ「ソクプレス」の株式を87%(2006年に100%)取 得することで、有力メディアをコントロールする長年の夢を果たすことになる。メディア業界への参入にいたるまでの経緯、プロパガンダとしか言えない彼のジャーナリズム観についてのダイジェストは、以下のサイトで読むことができるが、どれをとってもフランスにおけるねずみ男ぶりを発揮している証言ばかりで圧巻である()。ここでダッソーが語っていることは、そっくりそのままサルコジの選挙演説のテキストへコピペされていることは、後になって明らかにされることである。問題になっていることは、やはり「68年の清算」ということである。
まずダッソーによると、メディアというものは「健全な思想」を市民に対して伝達する使命があるとされる。この健全な思想とは何を隠そう、市場原理を尊重した自由経済主義を支持する思想でしかない。反対に、不健全な思想と彼が呼ぶものは、連帯や保障を重んじるフランスにおける社会主義経済を擁護する思想ということである。フランス経済の停滞は、すべてこの不健全な思想が原因ということだが、それに馴らされている市民よりも、むしろメディアの責任であると言う。ダッソーによると、不健全なものを健全であると報じているメディアは、市民を騙すことにしか役立っていないようで、それはちょうど地球の周りを 太陽が周っているとほざいているのに等しいとまで言い切る。68年的転回からの更なる転回。これを実現するためには、メディアの在り方をまず変革すべきであり、ただ保守派が政権の座に就くだけでは十分ではないと、ダッソーは知っている。改革のなかでも特に困難とされる、労働あるいは教育に関する法を少しでも修正しようとするならば、「天動説」を信じる組合、労働者、若者らの猛反発に合うことは68年以降、周知のことである。来るべき諸改革を彼らに受け入れさせるために、まずは脳内革命から着手するべきであるが、それにはメディアの力が必要なのである。さもなければ、いつまでたっても、やれストだ、デモだと言って、政府に楯突くことしかしないのであると、ダッソーは言う。例えば、35時間法については、次のように言う。「既得法だって?そんなわけないでしょ。あれはフランス経済の癌ですよ。」とりあえず、35時間法は破棄すべきものということだが、労働のモラルを低下させている法、雇用者だけに有利に機能している法は、すべて改革すべきであると主張している。そもそも仏労働法は、企業主に不利なものがあり余っているらしい。そのことは、企業が負担する社会保障費が高いことや、それに加えて簡単に解雇できない法が多くあることからも明らかだと言う。こういうことは、コングロマリットの下請け、あるいはそのまた下請けをやらされている中小企業主(彼らも搾取されている)が言うならまだしも、フォーブスの世界長者番付の常連で、国内でも上位5番に毎年入る資本家から 説教される筋合いはない。始めから必要なくなれば一方的に解雇することができる条件下でしか、人を雇えないということはどういうことなのか?他の国でもやっているからと、ペタン主義のダッソーは言う。こういったこと真実として、メディアはもっと積極的に報じなければない。それは時代が要請することであり、68年とか革命とかのノスタルジーに浸っている場合でないということだ。さもなければ、自分がパトロンになって、ジャーナリストたちを教育し直すと言いのける。その結果が、巨大な資本を貢ぐことで実現した、フィガロとの結婚というわけだ。
ねずみ男に説教されるジャーナリストらも気の毒であるが、冗談では済まされない事態に、フランスのメディア界は直面している。フランスで最も視聴率を取っているTF1は、ブイグ(土木・建設)が87年から筆頭株主としてコントロールしている。最近では、ラガルデール(防衛・航空)は書籍流通の約 7割をコントロールするアシェット*を買収したほか、ボロレ(製紙)は映像製作会社や世論調査機関、広告代理店や無料新聞などに積極的に出資している。このように、元来メディアとは関係のない母体をもつコングロマリットによる情報企業の買収劇は、ダッソーに限られたことではない。互いに似たようなプロフィールをもつ数人の人間によって、飽くなく演じられているわけである。今から77年前に、マラパルテというイタリア人著作家が、フランスで出版した「クーデタの技術」 という一冊の書がある。近代国家に対してクーデタを確実に成功させるための普遍的な必勝法を、ロシア革命などいくつかの例を挙げながら展開している理論書であるが、このなかで彼は、議会や官公庁などの一国の象徴的空間を闇雲に攻め占拠しても不十分で、まずは情報・通信・交通網などのインフラをコントロールすべきであると言っている。ナチスが台頭してきた時代で書かれたこの理論書は、すでに古典的な部類の理論である。しかし古典的と言われるのも、クーデタのテクニックとして述べられていることが、非常に効果的なものと認めれているゆえに、逆に、対クーデタ策としてそのまま応用されているという理由からである。大統領選出が一斉に報じられた数時間後、サルコジはシャンゼリゼのフーケッツへと移動した。そこには、財界の大物、業界人、次期入閣組など50名ほどのコラボらが招かれていた。なぜかラガルデールの名前は見当たらないが、ダッソー、ブイグ、ボロレがそこにいないわけがない。彼らが何を話していたのか詳細までは知らないが、完全に68年を清算するためのメディア戦略についてだろう。それはサルコジ大統領就任後の、メディアの在り方からも想像できることなのである。

ねずみ男の強迫神経症は、フロイトが紹介するいくつかの症例のなかでも、治癒に成功した稀な例であると言われている。フランスのねずみ男らも、徐々に快方に向っていると感じている。ただこの場合、治癒されるということはただ次のようなことを意味するにすぎない。それは、彼らの主張が妄想ではなく、「常識」として通用するようになること、国家の公式言語になるというぐらいの意味である。ねずみ男に同化するか、それとも少なくとも2012年まで続くペタン主義下で鬱状態でいるべきなのか?それとは別の選択、第三の道があるだろう。「無力を不可能なものへと引き上げよう」とバディウが言うとき、68年の有名なグラフィッティのことを少しは考えているかもしれない。「リアリストであれ、不可能を要求せよ。」今年は68年から40年経つが、清算を唱えるねずみ男らも、関連商品で一儲けすることを狙っているだろう。しかし、彼らには決して商品化されない68年の政治メッセージは、いつも自分の大事なところにしまっておけと、バディウは言うのである。

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Rue89は元リベラシオン紙の記者らが、昨年の大統領本選が行われた日に立ち上げた、最近話題を呼んでいるニュースサイトである。グーグルのアクセス解析によると、昨年の12/11から1ヶ月の間には、のべ100万人のアクセスがあったと報告されている*。WIKIを見ると、サイト名にもある89という数字は、フランス革命 (1789)やベルリンの壁崩壊(1989)の歴史的年号に由来すると書かれている*。サルコジが政権の座に就いてからというものの、主要メディアの(自己)規制が問題にされ批判されるなか、第四権力としてのメディア本来の役割を保持しようとしている稀な存在である。大統領本選の日に、セシリアが投票所に 足を運ばなかったことを公表したのもRue89であった。それはサイトを立ち上げて、1週間後のことだった。セシリア棄権票の件は、元々JDD(ラガルデール資本下の週間紙)が最初に掴んでいたようだが、報道することを見送ったと言われている。
ネットの普及や無料新聞の影響などにより、経営が軒並み悪化している新聞業界は、企業広告はもちろんのこと、外部から資本援助を受けずには存続できないところが殆どである。それと同時に、経営面で自立性を失った新聞社が、どこまで社外からの干渉を排除し編集の独立性を維持できるのかという疑問の声もあがっている。広告も含め、外部資本からの独立を維持することの重要性は、ジョレスがすでにユマニテ紙創刊号のなかでも強調していることであり(1904/4/18)、またリベラシオン紙の創刊に携わったサルトルにとっても同じである(1973/4/18)。創始者らは想像もしていなかっただろうが、ユマニテ紙は2001年にTF1(ブイグ)とアシェット(ラガルデール)に合わせて20%の資本の売却をしている。リベラシオン紙は、すでに93年から外資を受け入れており、3年前からロッシルド筆頭株主である。尚、ル・モンド紙は、経営不振が深刻化した2004年に増資によって、外資を受け入れることになる。現在のところ40%の資本は外部によるものであるが(ラガルデール17%-プリサ社15%-スタンパ3%)、昨年度の赤字に加え、1.5億ユーロにも膨れ上がっている経常赤字から、再建に向け新たに増資が必要となるようである*
報道界の現状に不満を覚えるジャーナリストは、Rue89のようにネットへと移動している。3/16から元ル・モンド紙の編集長でもあったエドウィー・プレネルが中心となって、MediaPartというサイトが本格的に始動する。現在のところ準備期間中で無料で閲覧可能。3/16からは会費制。あとは、シュナイダーマンのArrêt sur images*など(有料)。

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AB---(資本原理によって支配されるような世界とは)まったく別のタイプの集団的組織化が可能であるという考えを維持することです。労働における非道な不平等と専門・細分化という資本主義形態が、あたかも人間性の必然的かつ永続的な運命であるという考えに対して、NONと言える強い肯定ということです。・・・コミュニズム的仮説とは何かについて。




AB---サルコジが何を盾にするのは本人の勝手ですが、「文明」ということだけは勘弁してもらいたいですね。。。思うに、サルコジは無教養な人間ですよ。彼特有の野蛮さというものがあるのですが、金、見せびらかし、ヨット、トップ・モデルなど、どれを取っても野蛮さの現代版ですね。・・・エドガー・モランから借用した「文明の政治」を、2008年度の政治指針として記者会見の場で述べたサルコジをどう思うかという質問に対して。



スレッド:フランスの政治と社会 / ジャンル:政治・経済

2008.02.18[Mon] Post 04:12  CO:0  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

バディウ TV 対談(字幕)


スレッド:フランスの政治と社会 / ジャンル:政治・経済

2007.12.28[Fri] Post 00:43  CO:0  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

ジャック・ランシエール - 仏大統領選の雑感 ~ セゴレーヌ・ロワイヤルの参加型デモクラシー

一昨日、セゴレーヌ・ロワイヤルとフランソワ・バイルによる、第五共和制では異例のTV直接討論が、サルコジ陣営の圧力にも関わらず最終的に行われた。異例とはいえ、これまでも一次選後に敗者と勝者との間で、二次選前にTV討論が禁止されていたわけではない。ただ、74年の大統領選以来、二次選に駒を進めた二人の候補者による直接TV討論のみが、慣習的に行われていただけのことである。2002年は、シラクがルペンとの討論を拒否したので行われなかった。それは、反デモクラシー、反共和国主義者とは、話すことがないという、シラクの言い分からであるが、世論もこれには賛同していた。

問題の討論は、制度・経済・ヨーロッパ・社会生活をテーマに進められた。経済に関するテーマでは、妥協する点がほとんどなかったものの、それ以外のテーマでは、同調していたことが多い。なかでも、第五共和制の終焉に関するやり取りは、今回の討論でも重要なテーマであり、サルコマニア以外には(ルペンも含めて)興味深い内容であったと思われる。具体的なものは、大統領に多くの権限を集中させるような現行の君主政体の改革、議員の要職掛持ち禁止、国民議会選挙への一部比例代表制の導入、議会多数派政党の権力分散などで、要はデモクラシーという名において進められている、もっとも強い少数派が有利に働くような現行の権力図を改変するという内容である。これは、政治家による自己批判であり、変革、改革などを国民に要請する当事者も、同様に変わるべきであるということである。
結局、今回の討論が実現するまでの経緯を見てもわかるように、問題の焦点は、第五共和制の悪しき面の改革であり、これが意味するのは、自らに有利に機能する現体制を力づくで保持し強化しようとするサルコジ陣営に向けられた批判なのである。TV討論の前に、スタジオに招かれた各党の責任者がコメントをしていたが、終始、今回の討論が「第五共和制の精神に反する」と言っていたあるUMP議員が司会者の質問に対し、「デモクラシー?それは、多数派を意味するのじゃないの?」などと口を滑らす場面は非常に象徴的であった。
また、ロワイヤルやバイルに対して、第一次選挙期間では、お互いに非難し合っていたのに、今になって歩み寄るのは、支持者たちをバカにしているなどという、批判がUMP側からなされている。それに対しては、ロワイヤル以上にサルコジに痛烈な非難を浴びせていたドゥ・ヴィリエや、議会での席を確保するために急遽サルコジ支持に逃れるUDF党員などにも、UMPは同じように批判する必要があるだろう。
さて、残り一週間。政策に関する細かな討論も必要だが、デモクラシーという理念を、政治的な面から焦点を合わせ、サルコジとの差を明確にするなら、ロワイヤル支持が増えるような気がするのだが。反対に、デモクラシーという理念を、雇用に関する個人の自由やライフスタイルなど経済的な方向へと持っていかれたら、ロワイヤルが不利のような気もするが、どうなのか。昨日、フランス・ヨーロッパ・エクスプレス・FEEという政治番組に出演していた、トマ・ピケティー級の話が出来たらよいのだが。とりあえず、TV討論を見ることにしよう。

(先日サルコジはTF1での特番で、経済の話をしている最中、靴を脱いだり履いたりと、落ち着きがないというか、育ちのあまりよくない現場をカメラに撮られ、全国中継されてしまった。あまり気づいた人はいないと思うが、CANAL+で翌日、ギャクにされていた。TF1では友達の家に招かれているようなもので、つい、くつろいだ態度を見せてしまったのことだ。人のことは言えないが、こういう行為は、無意識なものだと思われるので、本人が注意してても、大事な場面でまたやりかねないだろう。)

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セゴレーヌ・ロワイヤルが、今回の大統領選にさいして、もっとも初期のころから、前面に打ち出そうとしていた理念のひとつに、参加型デモクラシーというものがある。これは、議会代表制ではデモクラシーの理念を十分には実現することができないという反省から生じてきた考えである。すでに大昔からある考えであるが、少人数で構成される集団内でならまだしも、国家規模で行われる選挙などでは、適用することなど到底できない単なる理想としてしかみなされていなかった。また、今日のような官僚主義的な世の中にあって、参加型デモクラシーには、多少ナイーヴなものとしての印象もある。しかしながら、現実社会に上手く適用できないというテクニック的な理由で、ひとつの理念について考えること、討議することが無用であることにはならないだろう。そもそも自由なり平等なり理念というものは、思考すべき対象であって、様々な角度から検討されるべき解なき問題であり、経験の場で実現されるか否かによって測ることのできない問題なのである。

公式選挙運動に先立ち、ロワイヤルが公判した書「MAINTENANT」が、市民との対話を通じて徐々に書き進められたものであることは、よく知られていることである。以前、ロワイヤルの公式サイトで、この書の草稿が少しずつアップされていたので読むことができた。本稿は読んでいないので、最終的にどういった内容に仕上がっているのかは知らないが、草稿の導入部では、デモクラシーについての考えがまとめられていた。すぐ目についたのは、ランシエールの「デモクラシーの憎悪」からの引用文であった。
ランシエールによるデモクラシーの理念。『この言葉に、本来持っているスキャンダルの力を返さなければならない。デモクラシーという言葉は、当初、ひとつの侮辱の言動であった。それは、下層民、大衆、統治することの資格を備えていない者らによる統治であった。』平等とは、目的ではなく、『誰もが備えている力』というデモクラシーの前提であり、『より多くの人間が、公共の事柄に携わる資格を持っている』ことの肯定である。(『』は、ランシエールの「デモクラシーの憎悪」からのロワイヤルの引用)

ランシエールが、ロワイヤルの選挙運動に直接的に関与しているとは思われないし、おそらくしていないと思う。それでも、こういったかたちで自分の思想が取上げられ、重要なものとして評価されていることには、本人も悪い気はしていないだろう。それはランシエール自身が今回のリベ記事でも言っているように、ロワイヤルが最後まで徹底的に展開されなかったにしてもである。しかし、ロワイヤルの発言のなかに、敢えてランシエールの影響を探すなら、いまだ見出すことができるのではないだろうか?
例えば、エネルギー問題についての最近の質問に対して、ロワイヤルは次のように述べている。「原子力発電のような問題は、国民全体の生活に関わる重要な問題であるので、一部の政治家や一部の専門家だけで討議され解決するような問題ではない。自分たちがどういた状況に置かれているのかということを、多くの市民が意識するできるように、政府は正確な情報をもっと公開すべきである。(原子力発電がいいとかわるいとかいうことに単純化する質問に対して)[…]天然ウランの可採年数は?代替エネルギーは?ウラン廃棄物の処理?再利用は?」
公共に関する諸問題を、これまでのように統治することが自然に許されているような、一部の特権階級の者らだけに任せておくべきなのか?取り決めを行う当人らの利益が約束されているような閉ざされた空間での密約に、異議を唱えることなしに従うことが善良な市民なのか?政治的なものが、政治家や専門家だけのものではなく、すべての者に開かれたものであり、そこへ介入していく能力をすべての者が備えているということが、ランシエールからインスピレーションを受け、参加型デモクラシーという理念のもとで、ロワイヤル自身が理解しているもののように思われる。

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5/1に、パレ・オムニ・スポーツ(15000人収容)で予定されていたパリでのミーティングは、定員がオーバーすることは確実ということから、最終的にシャルレティ球場で行われることに決定した。天候が今から心配されているが、野外での決行はセゴレーヌ・ロワイヤル本人の強い意向のようだ。セゴマニアではないが、型破りの自由な発想と、自分の意志を押し通す姿には好感がもてる。
火曜日、選挙本部での記者会見で、バイルとの公開討論を提唱したさいに、周りにいた党幹部が記者たちの反応から発言内容の重大さを察したのか、報道陣のヘッドフォンを奪い、ロワイヤル節を真剣に聞いていたのは、象徴的なシーンであるように思う。側近らにとっては、本当にハラハラさせるパトロンなのだろう。

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2007.04.30[Mon] Post 22:23  CO:0  TB:0  リベラシオン  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

仏大統領選~TV討論とゴールデン・ラカイユ

golden racaille大統領選の第二幕・・・裏切り、陰謀、中傷、告発、同盟。一次選の開票直後に、勝敗の行方はバイル票(6.850.000票)が左右するなどと、メディアで一斉に報じられていたが、そのことは、誰の目にも明らかなことであった。一次選で敗退したのにも関わらず、フランソワ・バイルは支持者らに健闘をたたえられていた。大統領選一次の敗者が、勝者以上に喜んでいる姿を見るのは稀である。・・・セダクション・オレンジ。先手を取ったのはセゴレーヌ・ロワイヤル陣営。社会党の選挙本部で、バイルとの公開討議を希望する旨を表明。水曜日、党首としてUDF支持者に対する二次選での投票意向を表明するために予定されていた記者会見の席で、バイルは、TV中継を許可する条件付きで承諾。それに対してロワイヤルは、金曜日に予定されている地方新聞社の共同記者会見の場で行うことを提案。バイル承諾。一次選前には、実現されなかった直接討論に、多くの市民は期待を寄せていたのだが、即日、地方新聞社連合会から拒否される。(ニース・マタン紙の社長ミッシェル・コンブールが現会長)・・・これに対してロワイヤルが、サルコジの圧力によるものと糾弾。サルコジ、コンブールとも、まったくのでたらめと反撃。・・・CANAL+社が今週の土曜日にも、特別討論の場を設けると名乗り、モデレーターまで発表したものの、最終的に辞退することに決定。CANAL+社側による企画白紙の理由は、公式選挙期間における、候補者ならびに党スポークスマンの発言時間均等法に従うというもの。規制はCSA:視聴覚高等評議会によるものではなく、CANAL+社自身の決定とされているが、今度は、バイルがサルコジ陰謀として非難する。(真相は明らかでないが、ほぼ確信しているとのこと。)三つ巴の場合は問題ないが、サルコジはバイルとのTVでの公開討論は拒否しているので、実現は不可能。彼曰く、「サッカーの決勝と同様、大統領選も決勝進出を決めた2チームによって争われる。」発言時間の平等が問題であるならば、ロワイヤルがバイルとの討論で費やした時間を、サルコジが自由に使うことで解決できると思われるのだが、彼にとっては討論自体をやめさせるところにあるので、いかなる提案も拒否するようである。(事実、前回のパリ市長選のさい、ドラノエ-セガン-チベリのTV(ケーブル)討論が企画されたのだが、チベリは拒否したため、ドラノエ-セガンでの直接討論が行われたこともある。その代わり、チベリには同等の時間があてがわれた。)パリなどで企画されている、選挙キャンペーンの模様などを実況中継するなどして、時間はいくらでも調整できるし、戦略次第では、サルコジにとっても悪い条件ではないと思うのだが。・・・などと書いている間にも、状況が進展したよう。デジタル地上波のBFM TV局にて、土曜日に中継することで、最終調整されている模様。(ネット経由で見れます。つまり、全世界からのアクセスが可ということ。サーバー大丈夫か?)仮に実現されなくとも、この件では、ロワイヤルがとったイニシアティヴの方が評価され、ポイントを稼いだと思われる。

サルコジは一次選のとき以上に、各方面から激しい攻撃を受けているものの(財界、一部のメディアを除く)、各調査機関が発表してる世論調査では、いまだに優勢を保っているものの、差は縮まってきている。ロワイヤルxバイルの直接討論が実現するのか?それによって、バイル票はどのように配分されるのか?ル・ペン票は?(5月1日に開催されるFN党集会で、ル・ペン自身が二次選での投票意向を支持者らに伝える。明言は避けるだろうが、バイルのように、誰に投票しないかは暗示すると思われる。)いずれにせよ、来週水曜日に予定されている、ロワイヤルxサルコジのTV直接討論が、決定的な要因となるだろう。政治リアリティー・ショーは続く。

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フランソワ・バイルの記者会見要旨

財界やメディア勢力に癒着し、威嚇と脅しを得意とするニコラ・サルコジは、かつてないほどに、それらの権力を縦にするだろう。人々の感情を煽るようなテーマの数々や、彼自身の気質によって、社会組織のいたるところで、分裂が悪化してゆくことは必至であり、そういったことも富裕層が有利になるようにと仕向けることによってである。[…]私にとって、ベルルスコーニとサルコジは同類です。[…]
デモクラシーについて、セゴレーヌ・ロワイヤルは(サルコジよりも)、考えているように思われます。そのことは、社会党が政権の座に就いていたさいに、改善することを何もしなかったにせよ、社会組織について配慮していると思われます。しかしながら、国家介入を増長させ、すべてを国家に任せるという幻想を維持し、数え切れない公共サーヴィスを創設するような、彼女のプログラムは、わが国の経済に創造性と均衡性を取り戻させるために必要不可欠なものとは、正反対の方針をとっております。[…]
われわれのように国債を抱えた国において、両候補者ともに、600億(ユーロ)とも言われる桁外れの公共支出の増大を公約しておりますが、そのうちの一人は(サルコジ)、レーガン、サッチャーでさえ、想像することさえしなかった、非現実的な減税をも提唱しているのです。[…]ニコラ・サルコジは、デモクラシーの諸問題と社会組織の亀裂を悪化させることになるでしょう。[…]セゴレーヌ・ロヤイヤルは、経済問題を長期的に悪化させることになるでしょう。(ここまで)
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要旨を見てもわかるように、ロワイヤルに対する批判は、これまでも左派に対して言われている一般的な批判の範囲を超えない、政策に対する批判である。しかし、サルコジに対するものは、アンチ・サルコが唱えるように、マフィア的政策、危険人物として人格にまで及んでいる。ロワイヤルに投票するか、白紙投票かは判断できないが、ベルルスコジに投票しないことだけは明らかである。

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使用した画像は、Charlie Hebdo N775(25 avril 2007)から拝借。



2007.04.27[Fri] Post 23:13  CO:0  TB:0  社会  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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