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ジョン・ダワー:「容赦なき戦争」についてのメモ

すでに第二次世界大戦について多くの書は存在する。amazon.co.jpで以下のワードで検索すると、「大東亜戦争」…130件、「太平洋戦争」…3297件、「第二次世界大戦」…231件という数がHITする。これらに古書を加えたら相当な数になるだろう。本を全く買わない人でも、第二次世界大戦に至る経緯やその経過についての史実に限るなら、今ならネット上で情報を十分得ることもできる。6月に<guerre et sang>というテーマで行われるコロックにて発表を任されてしまった。ジョン・ダワーの「容赦なき戦争」(平凡社ライブラリー)について話せばいいとのことなので、とりあえず読むことにした。以下は簡単なメモ。

*
「第二次世界大戦が意味するものは、ひと様々である」p32という一文から始めるダワーにとって、多くの犠牲者を出した大戦はかつて存在しなかったほどに「人種差別」が顕在化した民族闘争であったと言う。ダワー自身が強調していることであるが、無論、複雑に絡み合う諸要因から成る大戦を、人種の問題だけに求めることはできない。あらゆる出来事に関して言えることであるが、それが起こった原因をひとつのことに還元することは無理な相談であろう。しかしながら「人種」の問題が、第二次世界大戦において非常に重要な位置を占めていたことは疑いのない事実であるように思える。このことは、反ユダヤ主義とアーリア人種の優性を説くナチスに関しては言うまでもないことである。その一方でアジアにおける戦争でも、普段あまり語られることはないが、人種偏見は多くの人々の意識下に深く根ざしていたのではないだろうか。これがまず、ダワーによって提起される問いである。ヨーロッパ以上に激しい戦火となったアジアにおける戦争は、人種について問うことがなければ語ることができないとダワーは考える。おそらく著者にとっての問題はさしあたり、戦争がなぜ勃発したのかという歴史的な経緯などを知ることではない。戦争への経緯については、すでに多くの書のなかで言及されているので、その中から信頼のおけるものをいくつか手に取ることで知ることはできる。したがってここでの問題は、主に経済的な理由から隣国へ侵略することで勃発するとされる戦争から、敵対する民族をできるだけ多く抹殺するという「容赦なき戦争」へと到らしめた要因を明らかにすることに重点が置かれている。アジア諸国の解放という大義から次第に逸脱し、「大和民族優性」を前面に押し出すことで帝国主義の道を歩む日本。自由の戦いと称しながらも、最後まで「白人至上」を誇示するアメリカやイギリス。そこにおいて他者の存在はもはや人間としては見なされなかったということが、本書のなかで見られる多くの証言からも理解されるだろう。そして人間が人間として扱われない時に、双方での無差別な虐殺が可能となったことを理解するならば、戦争という決して正当化することはできないひとつの政治プログラムの一部として考察することができる。*(1)

剥き出しの人種間の闘争意識が、戦地に向う兵士のみならず市民レベルにまで浸透していたのは、言うまでもなく、軍指導者らによる執拗なまでのプロパガンダ戦略によるものであった。それは一般的に言われるように、自国民の士気を昂ぶらせることと戦争の正当性を示すために、新聞やラジオから映画・雑誌・風刺画に到るまで、既存のメディアすべてを媒体に徹底して行われていたという。それらの内容は主として、人種偏見に基づいて制作されたものが殆どであると言われている。そのことについてダワーは、もっとも広く流通したとされてる資料体を引用することで読者に示すことになるだろう。さしあたり重要なものは、以下に挙げる3つである。アメリカ側の実例としては、フランク・キャプラが軍の指令によって制作した「なぜ戦うのか」と題する戦争ドキュメンタリーのシリーズ。これは現在いくつかのサイトから一部DLすることができる。(例えばここ)一方、日本側のそれは、軍によって兵士に配布された「これだけ読めば我は勝てる」という小冊子と、文部省が一般市民向けに発布した「臣民の道」というイデオロギー宣言書である。これら3つの資料は、さすがにプロパガンダというだけあって、誰にでもその内容が理解できるように、白黒をはっきりさせたごく単純なものであったが、それでも最大の効果をあげるためには、様々な工夫がなされていたという。
例えばキャプラのドキュメンタリーについてであるが、プロパガンダの主題は「なぜ戦うのか」というタイトルよりも、彼の経験則であったとされる「汝の敵を知れ」p59という言葉に集約されるように思われる。そこではまず、敵がいかに残虐な民族であるかを示すことに重点が置かれていることに気づく。そして当然のことながら、そこには敵と正反対の立場にあるわれわれは善き民族であるということが内含されている。キャプラの手法は、今では古典的でもある手法であるといえる。しかしこれは、プロパガンダを作成するにあたって現在においても非常に効果を持ち続けている手法であり、いわばそこでの反動的図式が即時的に確認できるものである。現在よりも情報が乏しくかつ検閲されていた時代において、さらには敵がいつ攻めてくるかという不安に駆りたてられた時代において、単純すぎると思われるプロパガンダによっても、人々を洗脳するには十分であったと想像することができる。いやむしろ、プロパガンダは単純であればあるほど、それが伝播する速度が増すのかもしれない。反対に即時的な影響力をもつものは、その効果が失せるのも同じだけ速いだろうともいえる。したがって、自らが制作するドキュメンタリーの内容に信憑性を与えるため、またその効果を持続させるためには、キャプラは自らが持ち合わせている製作技術を最大限に駆使することの努力を惜しまないだろう。ダワーが示している際だった手法のうちひとつは、敵の行為がどれほどまでに非業であるかを実証するために、現状の報告だけでなく過去の史実にまで遡るということが為されていたということである。それによって敵の非人間的行為は今に始まった例外的なものではなく、本質的かつ人種的性格に起因するものであると、ひとは信じることになったわけである。また例を挙げれば限がないが、敵国から発信される美化された言表と現実に遂行されている諸行為とを並列することで矛盾を明確にし、敵は非理性的な狂言者であるという像を仕立て上げることにも力を注いだとされる。以上のような内容が、映画製作において頻繁に使われるモンタージュによって効果的に示されたというのがダワーの見解である。
次に日本のプロパガンダについてである。ここでは、そのなかで謳われている内容に関する細部に渡る分析よりも、ダワーが終始問題にしている欧米のプロパガンダとの間にある表現上の差異について問うことが重要だと思われる。当然のことながら、国民の士気を高めるというような機能的観点からは、双方のあいだに差異は存在しない。ダワーによって差異があると言われるのも、それはたんにプロパガンダで用いられるレトリック上でのことでしかない。具体的に言うと、一方では敵を侮辱することを主とする欧米人のプロパガンダ形式があり、他方では積極的に「純粋な自己」を打ち出す日本人のプロパガンダ形式があるということである。これを図式化するならば、他者を否定するものと自己を肯定するものというように示されるだろう。現在においても例えば極右政党から伝播される政治的ディスクールのうちで見られる、プロパガンダ作成で適用される二つの主要な型である。一方で、二つを混在させたプロパガンダが多く存在することも周知のことである。例えば、ナチスのプロパガンダに見られるようなものは、ひとつの混在型の典型ともいえる。したがって、他者を否定するものと自己を肯定するものの区分を明白にすることは困難なケースがあることになる。それでも当時の和製プロパガンダにおいては、自己を肯定することにだけに重点が置かれていたことが、ダワーによって述べられている点である。それはいかなる理由によってであるかが、ここで提起される問いである。
形だけでもナチスと同盟を組んでいた日本が、あからさまに白人を侮辱することが容易でなかったということは、さしあたって有効な説明のように思われる。しかしながらたんに、論理的な矛盾に対する配慮から、欧米人を侮辱することを躊躇したというわけではないだろう。理由はむしろ、日本人が欧米人に対してとらざる得なかったアンビバレントな態度から説明できるとダワーは述べている。アジアのなかでは逸早く近代化に着手した日本ではあるが、欧米諸国よりも遅れをとっていたことは周知のことである。また近代化を推し進めるにあたって、欧米人に対して多くを負っていることを意識していたのは、外でもない日本であったということである。国民の誰もが自覚していたとされるこういった現実に反して、欧米人を侮辱することを前面に掲げるレトリックには、効果を最大限にあげるという点では、最初から限界があるということが認識されていたのであろう。それだからこそ、「欧米人を見下すことが決してできず、<ちっぽけな連中>とも呼べなかった」p325というのが、当時の日本人に対してダワーがくだす診断である。それと同時に、「十九世紀の不平等条約、アメリカ及び他国における差別的な移民政策、それに国際連盟の創設時における屈辱」p350などによって蓄積していた、欧米人に対する不満が爆発寸前の状態に日本があったということが述べられている。つまり、一方では、欧米人に対し引け目を感じていた日本があり、他方では、欧米諸国に強いられてた「過去の侮辱および冷遇に対する明白な復讐の念」p350で満たされていた日本があったというわけである。このような日本の心情が、自らが作成するプロパガンダのなかに反映しているということである。敵を侮辱する代わりに「血統と道徳の双方の意味での<純粋性>に的を絞った」p325という、表現上に現れる自己を肯定するという背後には、反動的な日本の姿があったということである。尚、純粋な自己を打ち出す形式自体については、特筆すべき点はここでは少ないかと思われる。なぜならばこういった形式は、民族アイデンティティを形成するやり方としては非常に古典的なものであり、原始的な宗教の基盤になる神話のうちなどでも広く一般に見られるものだからである。
以上のようなことを考慮に入れずに、ただプロパガンダに謳われている内容だけに眼を向けるなら、欧米人ほうが剥き出しの憎悪を表明しているだけに非常に反動的なものとして判断されるであろう。一方で、「西洋における人種主義は、他の人々を侮辱することに際立った特徴があったのに対し、日本人は、もっぱら自分自身を高めることに心を奪われていた」p350という件に、ニーチェの有名な「よい」と「わるい」に関する価値の二源泉の有名な図式を適用してみるならば、否定されるべき他者の媒介なしで操作されている日本側の自己評価の様式は、いくらか高貴であるようにさえ思われる。(cf『善悪の彼岸』第一論文。特に§10-11)だがこういった解釈は、ただ言語によって指示されている意味を、それを語っている主体から切り離すことで可能となる、表面的な解釈でしかないことが理解されよう。つまり、「誰が」語っているのかを考慮に入れない限り、ひとは表現されているものの真意を簡単にとり逃すことになるからである。ここで言う「誰が」は、すでに見たような反動的日本(人)であるのだが、「どういった」状況のなかに置かれて「何を」思考し、「何を」目標としている日本(人)なのであろうかと問いてみる必要があるということである。*(2)

当時においては敵を知るためのプロパガンダとして機能したものであったが、現在それらを見たり読んだりするわれわれにとっていかなる意味を持つのだろうか。この問いに対しダワーは以下のように述べている。

誰一人「汝の敵を知れ」のようなドキュメンタリー映画を、何十年もたって戦時中の日本人について知るために見ることはないのは確かである。主としてアメリカ人について知るために見るのである。したがって「これだけ読めば我は勝てる」や「臣民の道」も、日本の敵についてではなく、戦時中の日本人の心的傾向について語っていることに興味をおぼえる。p71

過去に起こった史実の真理を後世に伝えることを使命とする、歴史学者としてのこの意見は非常に的を得たものである。しかしながら、ダワーが『容赦なき戦争』のなかでわれわれに云わんとしていることは、ただ第二次世界大戦において確認される人種差別とプロパガンダの問題に限定されたものでないだろう。そのことは、いくつかの重要なページから察しできることである。*(3)今日でも内外を問わず政治的ディスクールのなかで、人種差別を伴うプロパガンダというものは存在する。過去の史実に対して的確な見解をもつことができるひとでも、現実社会のここかしこで蔓延るプロパガンダの支配力から完全に身を守ることは難しい。それというのも社会が不安定になればなるほど、それを逆手にとった政治的ディスクールあるいはプロパガンダが台頭することは、歴史のなかから学べることである。終結したと思われる過ぎ去った事柄について、とやかく言うことは簡単である。また現在という地点から、過去を裁くことは容易であろう。問題はわれわれが置かれている現在進行中の具体的状況のなかで、不安を利用したプロパガンダを未来にとって有害なものとして判断できるかということである。確かにひとつの判断基準を与えることは容易ではない。しかしながら少なくとも、人種差別を匂わせる一切の発言には敏感に対応する姿勢を持つに越したことはないだろう。ダワーにとって第二次世界大戦は、多くの人々が人種差別プロパガンダによって、思考を停止させられ、戦争機械の一部と化してしまったことが、容赦なき戦争へと悪化させた要因であると言う。過去の史実に関することで、「もし~しなかったら」というような仮設は、消し去ることのできない過去に対する無力感の告白であるかもしれない。しかしながら過去についての反省から得られる認識が、具体的な状況での振る舞いを規定することがある程度可能となるなら、そこから開かれる未来について、うんざりさせる一般的なものの回帰とは別のものを期待することは可能であろう。(ver1.0)



補填
(1)例えばナチスのホロコースト問題に関して、バディウは「倫理」のなかで次のように述べている。「虐殺の特異性を思考すること、それはまずもって政治としてのナチズムの特異性を思考することである。一切の問題はそこにあるのだ。ヒトラーがひとつの大規模な軍事的オペレーションとして虐殺を遂行できたのも、彼が権力を握ったからであり、<ユダヤ>が諸々のカテゴリーのひとつであったとされる、あるひとつの政治の名のもとで政権をとったからである。倫理イデオロギーの擁護者らは、虐殺の特異性を直接に悪一般のうちへと局在化するあまり、ナチズムがひとつの政治であったということを、頭ごなしに否認することを頻繁にやってしまう。しかしながらこのことは、弱さと同時に勇気を欠いたひとつの立場でしかない。弱さというもの、政治的構想としてのユダヤという言葉の構築を統合している<集団的>主体性におけるナチズムの構築が、虐殺を可能にし、かつ必然的なものにしたからである。また勇気を欠いたというのも、有機体・組織体の諸カテゴリー、主体的諸規定が犯罪的であるような諸々の政治が存在し得るということを、あらかじめ考えることを放棄する場合には、徹底的に政治を思考することなど不可能になるからである。〔…〕ナチス政権のひとつの特異性として、ある勝ち誇る主体性を植え付けることが問題となる歴史的な<共同体>が的確なかたちで宣言されたということにあった。そしてこの宣言がまさに、主体自らの勝利を可能にし、虐殺を予定通りに遂行したのである。」(A.Badiou, L’Ethique, 1993, Hatier, pp58-59)ここでのバディウの問題は、「倫理」という書全般から判断するならば、「悪」一般というものが存在しないということである。悪というものは善と同様に、常に特異な状況のなかでしか思考できないものであるということが展開されている。ナチスのホロコースト問題は、悪と判断される出来事には違いないのであるが、その他諸々の悪と比較されるようなものではない。このことは、ホロコーストが歴史のなかで人類が遭遇した「根源悪」として意味をもつからではない。それはたんにひとつの悪として、他のものと同様、特異なものとして思考されるべきだと意味である。ひとはホロコーストを「根源悪」として見なすときに、思考されるべき様々な問題をとり逃すことをしているとバディウは主張している。このことは、比較される出来事(
つまりここではホロコースト)に関しても、それと比較するホロコースト以後不幸にも起こっている諸々の虐殺・非道行為に対しても言えることである。まずホロコースト自体に関することであるが、(ナチスという)ひとつの政治プログラムとしてそれが遂行されたということが見落とされるということである。ここでは、道徳的問題はまったく関係がない。問題はなぜそういったことが可能になったのかという、ナチス政治でみられる特異性が思考されずに、ただホロコーストのドラマティックな出来事にすべてが集結されてしまうという点にある。またホロコーストを根源悪の象徴としその他の虐殺を比較することで、後者に関しても同様に、それが生起してしまった特異な状況や、様々な政治的背景などが一般化されることになるという弊害も生じるということである。ただ、虐殺というひとつの政治的なプログラムの帰結として遂行されたことを、人道的な観点からのみ、そこに到る政治的な過程と切り離して取り扱うやり方は、萎えた思考が問題にすることである。またホロコースト以外の諸虐殺についてあえて付け加えるならば、それらを根源悪と見なすものと比較することの意義はどこにあるのだろうか。もしひとが虐殺のテクニックや数などを比較することで、悲惨さを図るというのなら、それは犠牲者らに対する最大の冒涜にしかならないだろう。(引用したパッサージュは、昨年Lignes社から刊行されたA.Badiou, Circonstance,3 PORTEES DU MOT"JUIF"にも編纂されている。pp34-35)

(2)ドゥルーズ『ニーチェと哲学』§3-1などで展開される「能動的言語学」の例。ドゥルーズはここで、言語(活動)というものを理解するために、聞く者ではなく語る者の観点に身を置くことの重要性を説いている。例えばある語は、「その語を語る者がその語を語ることによって何ごとかを意志する:veut quelque choseのでないかぎり、何ごとかを意味する:veut dire quelque choseことはない」(国文社。足立和浩訳)と述べているが、語に表出されている主体的要素を捉えずしてはそれの意味は理解されないというように解釈できる。

(3)戦争をあれほど残忍なものとした人種的、人種主義的思考様式は、一九四五年八月以降、目に見えて影をひそめ、変化をとげる。[…]だが憎悪に満ちた人種的ステレオタイプが形を変えたとはいえ、それがまたくなくなってしまったということではない。鳴りひそめているいるが危機や緊張が高まればいつでも復活する可能性がある。実際こうした思考パターンは、のちにまた形を変え、冷戦時代の新しい敵に適用されたのである。一九五〇年初期にはソ連と中国の共産主義者および韓国の敵に対し、六〇年代、七〇年代ののベトナムの敵に対し、そして敵対的な第三世界の運動一般に対してというように。ある特定の状況は変わっても、パターンはそのまま持続したのである。それは全体像の一部にすぎないものではあるが、なお多くを語っており、将来また頭をもたげ、悲劇を呼び起こす恐れのある一面でもある。p51
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2006.05.05[Fri] Post 00:21  CO:0  TB:0  未分類  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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