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またしても、ヘーゲルです。この頃読む本全部にヘーゲルが出てきます。21世紀前半はヘーゲルの時代なんえしょう。ご本尊を読んでないからナンもいえませんが。
2006.04.08[Sat]  投稿者:猫屋  編集  Top▲

猫屋さん>どうなんでしょうね。33-39年に行われたかの有名なコジェーヴ講義から実存主義・マルクス主義全盛の頃までは、かなりヘーゲルは読まれたと思われますが、70年代以降はニーチェとかの影に隠れてしまったようです。それでも、90年代にヘーゲルの新訳ラッシュがありました。「精神現象学」などは半世紀もの間、非常に美しいフランス語訳のイポリット訳(初訳)しかなかったのですが、2つの新訳が出ました(うち一つはすでに文庫化されてます)。美学講義全3巻の新訳も出ましたし、コジェーヴやマルクスから切り離された新たなヘーゲル研究が進められているのかもしれませんね。あまり詳しいこと知りません。
2006.04.08[Sat]  投稿者:chaosmos  編集  Top▲

丸山真男の時代、にもヘーゲルが出てきました。この現象は必ずしもフランス事情ばかりではないと思います。たぶん、今は歴史の折り目であって、結果ヘーゲルに戻る人間が多のではないか。もちろん、マルクスがあとに控えています。フロイトやラカンの場所はもちろんありますが付随的な限定説明性なもので、時代の構造変換を扱うのに精神分析や社会学では歯が立たない、というよりそれらは(歴史学もそうだけど)事後にしか機能しないだろう。基盤自体のきしみは、へーゲリアン的規模でしか見えないんじゃないでしょうか。
2006.04.09[Sun]  投稿者:猫屋  編集  Top▲

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スロヴェニアのパンダ男

今夜は写真だけ、です。 なお、自己成分解析してみました。 猫屋寅八の43%は花崗 .....続きを読む
2006.04.09[Sun]  発信元:ね式(世界の読み方)ブログ  

ジジェク : 闘争の普遍性を信じる




Propos recueillis par Jean Birnbaum

--------
*
操り人形と小人のなかで、あなたは社会における信仰の地位を述べています。信仰とはもはや自らの役割を公的には受け入れ得ないものであり、<個人的かつ不吉な秘め事>となったと、あなたは述べています。あなた自身は<信仰を持っている者>なのでしょか?

私は完全に無神論者です。しかしながら問題は、無神論者として私は有限性の哲学に対してそうであること、唯物論的観点から無限という概念を思考するため、この無限という概念を復権させようとする立場に私はおります。そういうわけで、こめかみに銃を突きつけられたアメリカ映画のギャグスターみたいに、<あんたの正体は>と尋ねられるさいにも、私は<ひとりのヘーゲル主義者>と答えるでしょう。私がカントやドイツ観念論者らについて語るとき、また私の至上の欲望でもあるラカンを援用するときでも、それはひとつのヘーゲル読解なのです。さらにマルクスあるいはキルケゴールの批判に対しても私はヘーゲルを擁護するのですが、それというのもヘーゲルがもっとも根本的であると信じているからです。それは私の境界線でもあるし、そう、最も神秘的なものでもあります。すでに高校時代に、何と言いますか、ヘーゲルというこの公現祭を体験してたわけです!

あなたは無神論者でいることがどんなに困難であることかについて語っているチェスタトンを引用していますね。。。

私の書の中心にある考え、まさにそれはキリスト教の外傷性核心にあります。ひとが無神論者であるときにでも、事実ラカンが述べているように、われわれにとってそのこと(無神論者)を信じている大文字の他者というものをつねに持ち合わせています。しかしながら大文字の他者自身はそのことを信じていないと承認することは、キリスト教のうちで少なくとも起こることなのです。チェスタトンのこの素晴らしい解釈があるのですが、それはキリストが<父よ、どうして私を見捨てたのか?>と、十字架上にて尋ねるこの瞬間、それは神自身が無神論者であるという破局的瞬間であると彼が語るところにあります。つまりこのことをヘーゲルの用語で形式化すると、人間と神を分かつ溝は神自身のうちへと置換されるということです。私にとっても同様に、それは非常に外傷性実存的な体験ということです。ひとつの例を挙げてみます。強制収容所からの生還者でもある哲学者アグネス・ヘラーは私に、ナチス収容所にて、そこでも生に固執していた者らとすでに死を受け入れたいた者らの基本的境界以外に、神話的でもある第三のカテゴリーが存在したということ、つまり隣りの仮兵舎のなかで、人が希望をもっていたわけだですが、他者を救済することができ、倫理のうちに止まっている誰かが、端的に言うとそれを未だに信じている誰かがいるということである。へラーは私に、この人物に出会ったとき、そしてその人物が他の人々と同じであるとして理解されたときが、もっとも悲劇的な瞬間であったと述べていた。つまりひとりの非-信仰者でいることは容易であっても、われわれにために信仰するかもしれない大文字の他者が不在であるということを承認することは困難であるということである。キリスト教の教えはこういったものである。十字架で死んでいるものは神の代理ではなく、彼岸そのものの神であるということが、ヘーゲルの美しい言葉にあります。残されたものは、聖霊のみということで、われわれは責任を負っている者であるというわけです。私にとって信仰する者らの真の共同体とは、大文字の他者を持ち合わせていない共同体ということになります。

様々な宗教的<原理主義者ら>は、こういった大文字の他者に受肉することを主張しています。あなたは彼らにこの権利を否認するわけですが、なぜですか。

様々な原理主義者らの問題は、自分らがそのように思っていないということであり、そのことを彼らは知っています。アメリカでのキリスト教原理主義者らと話しをするさいに驚かされることは、彼らにとっての諸々の信仰命題が、実証的知のそれと同じくらい素朴・単純であるということです。彼らは学問<マニア>でありかつ、彼らの見解ではイエスの受肉は原子の構造と同規定を備えた一事実であるというわけです。したがって原理主義というものは、よく言われるように数世紀来の知にとってひとつの危険であるのではなく、信仰自体に対する危険であるというわけです。なぜなら、私はそれが不可能であることを知っているが、それでも信じることにすると言うように、<不条理が故に吾信ず:credo quia absurdum>というこの不可能なものへの投企としての本来の信仰を彼らは失ったのです。諸々の人権を例にとって見ましょう。いっさいの差異にも関わらず、普遍的な諸権利があることという考えです。これは純粋信仰の条項です。そこには客観的知のみならず、主観的決定というもの、無条件な倫理・政治的投企があります。それはこのように機能するのです!こういった何かがすでにユダヤ教のなかに、救済すべき何かが存在するのです。いわば信仰なしでは本来の意味における倫理は存在しないということです。この点についてジャック・ランシエールが、諸々の人権というものが自然化されるべきものでないばかりか人間の所有物でもなく、最も基本的な人権は普遍性の権利-つまり空虚を満たし投企する権利であると言うことで、それらについてのレトリックを擁護することに私は同調します。それはまさに真なる信仰というものであり、今日われわれが必要としているものなのです。

アラン・バディウは聖パウロを、彼以降の活動的相続が前衛的政治を再び基礎づけることを可能にするひとりの説教家闘士に仕立てています。あなた自身もパウロ的草案を真なる<レーニン的投企>にしておりますが。。。

信仰者らの共同体のなかで、時に革命的党派、さらには精神分析的社会のうちにひとが見出す集合的空間の新たな類型を、パウロのユダヤ的遺産のなかで発見することに関して、私はバディウに賛成します。すべての問いは、社会・政治の領域での新たな形式を見出すことです。自分の立場から絶えず離脱し共領域を求めること等を要請されている複数主義の社会のなかで、今日われわれは生を営んでいます。これに反して、パウロの作品の中で私が好むものは、真の普遍性へと導く道とは断固と決意した道でかつ不公平でもある道:celui[=le seul chemin vers l'universalité véritable] de parti prisであるという、いまだかつてないほど価値をもった考えであります。普遍的真理は不公平な・偏ったものであり、それ自体のうちで賭けられたものであります。それは私が復活させようとする戦闘的宗教の一面であり、そういうわけで多様文化主義の一切の論理や、<寛容性>あるいは<諸差異>に関する徒弟というような諸概念などが、私にとっての大問題になるというわけです。私は戦闘の普遍性を信じております。

あなたは、マルクス、レーニン、ローザ・ルクセンブールなどを引用しています。共産主義理論家らが宗教的<疎外>に対する批判を進めるさい、来るべき非宗教的政治の名においてそれを行っています。あなたの作品群でこの境界を区別することが難しいのですが。

そのことを認めるべきですが、私の立場は否定的であります。例えば不正と戦うためにはひとつモデルを持つべきであるというような、ハーバーマスの規範的論理には同調しません。つまりまず最初に出来するものは、不正の経験です。それは、いささか革命的キリスト教的でもある連帯性は苦悩のなかで生まれるという考えです。<誰もがみんな同じ戦闘のなかにいる>、私にとっての普遍主義の第一形式はこういうものです。まさにそこから、空虚な場としての、いわゆる正義の展望が切り開かれるのです。さてルサンティマンに陥ることなしにこういった正義の問いを形式化するにはどうしたらよいでしょうか?ジャン・アメリーがルサンティマンの権利を復権しようと主張しているテクストを、最近また読み返しました。ナチスを裁くことは不可能であると、彼は述べています。また贖罪することも不可能であると。私が唯一し得ることは、自らのルサンティマンを知らせることです。これは興味深いことなのですが、おそらくニーチェに反して不能なものとしてではなく、肯定的プログラムを所持することなしに不正の体験を知らせる根本的権利として、ルサンティマンを復権すべきかということです。権力の座にある人々はいつも同じことを言っているのですが、それはつまりある批判を言表するやいなや、<確かにそうなんだけど、肯定的プログラムはあるのですか>と答えるというわけです。もちろん、そんなのものはございません!われわれは、ひとが活動領域を準備することの可能な空虚の時代に生きている。われわれの主要な課題は、今日において、何をしたらよいのかを知らずとも、開かれた空間は維持することである。私にとってのひとつの倫理的行為というものは、普遍的なものを再分節化する主張を保持している少数派の一態度です。

例えばどういうことですか?

例えば、実質的秩序(キリスト教・ユダヤ人・政治的などの私の共同体)に帰属するとき、真なる決断というものは、この共同体そのものの核にあるものの名において共同体を裏切るべき契機です。欧州憲法に対する<否認>はこういった例です。この憲法はかくかくしかじかの官僚主義的妥協でありました!もちろん私は<否認>陣営に存在する反動的な作為すべてを意識しております。プロト-ポピュリスト的かつナショナリスト的な地元根性の名において、ヨーロッパに対して<NON>と言うことは容易です。しかしヨーロッパ自身の名において、普遍的ヨーロッパの名において、ヨーロッパに対する<NON>は、まさにひとつの行為であり、それが空間を切り開くことを可能にするものだと私は信じております。いささか問題的なもうひとつの例をとってみましょう。パレスティナ人に対する私のいっさいの共感とともに、イスラエルは似非-問題であると公然と言うことが彼らにとっての行為というようなものでしょう!真の問題はわれわれの側にあります。イスラエルに対するこういった妄想は、アラブ世界自身の破局を、反動的・おぞましいこれらの体制の惰性を隠蔽することにしか役にたたないと発言すること。つまり、彼らにとって本物の行為というものは、すべての領野を変更すること、諸関係を明瞭にすること、闘争を内部化することです。私が大変気に入ってる、ブラッド・ピット出演のアメリカ映画でファイト・クラブという映画があるのですが、そこでの教訓は、敵と闘うにあたってまず自分自身と戦うことから始めるべきということです。これによってすべては変化し、そのことがすでに勝利であるということです。

あなたは<反グローバル主義>運動の主要後見人のひとりとして通っています。<ジジェクの政治>があると言うことができますか。

ありません。もしあるとするなら、それは<バートルビーの政治>と私が名づけるものでしょう。つまり<できればしたくないのですが>の政治です。今日のようにすべての人間が<抵抗する>さいに、おそらく最初の一歩は、こういったゲームを拒否すること、そして既存の機械の一部になっている反対することのある様式が存在することを確認することです。おそらく最初の真正な態度は、何かを行うというよりも、行動したくなる誘惑に抵抗するということでしょう。<反-グローバリゼーション>のこういった行動のすべては、似非活動性とひとが呼ぶものを私に想起させるのですが、つまり何一つ具体的な変革をすることをしないがために四六時中行動しているというものです。ここにおいて私は、68年5月の全相続に関して非常に批判的であります。私自身も参加したのですが、あまり好きにはなれませんでした。私にとっては、ひとつの見世物でした。私は解放的急転に関するこの考えを嫌っております。。。私にとって関心があることは、それに続く日であり、先行した秩序といかなる点で違うのかと問う瞬間です。レーニンもしかり聖パウロもしかり、問題点は同じであり、政治化された斬新な諸形式によって、(結婚、性など)非常に日常的な事柄に至るまで、新たなる肯定的秩序のうちで革命というものがどのように翻訳されているのかという問題です。私の問題は次のようなこと、秩序への回帰ということです。

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とりあえず、ルモンドに記載されていたジジェク対談の訳だけUP。フランスにおけるヘーゲル哲学の契機なども少し書いてみたいのだけど、さっくっと書く頭がないので後日。(とは言っても、いつになることやら。)朝日新聞に先日記載されたジジェク対談は読んでませんが、同じものなのでしょうかね?

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参考)フランス各紙にジジェクが寄せた記事と対談

資本主義の論理は自由の制限を導く 
L'Humanité : Article paru dans l'édition du 4 janvier 2006 fenestraeさんの訳



猫屋さんの訳


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2006.04.08[Sat] Post 08:12  CO:3  TB:1  未分類  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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