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仏暴動について 4 (ランシエールとヘテロトピック)

 公共のことがらに対する発言を、統治することを自然に許された者らに独占させないこと。こういった発言することの平等性を、デモクラシーという名のもとで再考する必要があると、ランシエールは提唱するのである。換言すると、デモクラシーという元来、政治的・公共的なものに関して発言するという自由・平等が、資本社会のなかで私有化(privatisation)され、脱政治化(dépolitisation)される傾向から守られる必要があるということである。こういったデモクラシーは、もはや国制としてのデモクラシーや、今日のライフスタイルとしてのデモクラシーとは、全く関係ないものである。一方で、統治者らにとっては、既存秩序を転倒させるようなものとして怖れられるかもしれないが、それは発言する主体側が意図しているものではない。発言する主体が気に掛けていることは、統治者らのそれとは全く異なるものであると、ランシエールは言う。それと同時にランシエールは、政治という名で実践されている活動を、従来の統治・支配の場で実践されている権力の行使というものとは異質なものとして考えているのである。発言されたものが、結果的に諸々の支配関係を揺るがすことになっても、それは結果でしかなく本来の目標ではない。それ以前に発言するという行為それ自体が重要であり、それによって創造される支配関係とは異なるヘテロトピック(hétérotopique)な場が、唯一の政治の場として考えられるということである。p52 ランシエールはこれらのことを、プラトンのテクストから読み取れる、統治するための資格証のリストをもとにして展開している。 *
 ランシエールは、社会における統治を可能にするため、支配者らに寄与されるある種の「資格」(titre)に値するものが、プラトンの著作群から7つ確認することができるという。ここで言う「資格」はTITREに充てた訳だが、権利とか称号などの意味もある。またフランスでの、外人用の滞在許可証のことはtitre de séjour、不動産登記証書はtitre de propriétéなどと呼ばれている。さて、プラトンが挙げる支配するための資格証(実際に配布されたものではない)は、以下のように列挙できる。1)子供に対する両親の権力。2)若者に対する年長者の権力。3)奴隷に対する主人の権力。4)血統が良い家柄出身者の平民に対する権力。5)ピンダロスによって洗礼された「自然法」、弱者に対する強者の権力。6)何をして強者と呼ぶのかが曖昧であることからゴルギアスによって補填された、知識ある者の無知な者に対する権力。p46
 社会において支配する者は、1~6のTitreのいずれかを所持している。ある者は複数持っていることもあるだろう。そして、1~6の資格の上に建てられる社会形式は、家族と呼ばれたり、老人政治、貴族制、さらにはテクノクラシー、学校、会社など、それぞれに対応する名を見つけることができるだろう。また、1~6の資格が混合された形式も存在するが、これらすべての名を知ることはここでは重要なことではない。重要なことは、まず1~4の資格が、出生の差異に触れていること。(前/後あるいは善/悪など)そして5と6は、出生ではないが、「自然法」とそれを完成するものとして考えられているということである。以下ランシエールの説明を引用すると、「これらすべての資格は、以下の二つの必要条件を満たすことになる。第一に、各々の地位のヒエラルキーを決定するということ。次に、それを自然との連続性(最初の4資格に対しては、家族的・社会的諸関係を介在にした連続性、残りの2資格に対しては、直接的連続性)のうちに決定するということ。最初の4資格はシテの秩序を血縁法の上に根拠づける。他の2資格はこの秩序に対して、高次の原理を要求している。つまり、先とか家柄が善く生まれた者でなくて、たんに優れた者が支配するということである。統治の原理が自然を引き合いに出しつつ血縁と分離されるとき、その原理が部族の父あるいは聖父との単なる関係とは混同されないひとつの自然を援用するとき、ここにこそ、実質的に、政治というものが起こるのである。」「ここにおいて政治が開始するのである。しかし、政治が、その本来の優位性とただの出生権とを分離しようとする途上で、上位そして下位の位置をも占めることになる7番目の資格、ひとつとして同じものではない資格という、ある奇妙な対象に出会うことになるのだが、それこそがわれわれがもっとも公正なものとして見なす資格、つまり「神々に愛された」権威的資格、それによって平等な人民が各々の地位・立場の配分を決定するところのデモクラシー的手続きである、偶然の神による選択、くじ引きであると、アテネ人は言うのである。」p47
 7番目の資格の前に、これまで支配する正当性を主張していたすべての者が屈することになると、ランシエールは言うことになる。これは、彼らにとって全くスキャンダラスな事件なのであるが、それというのも、自然から授けられた自らの特権が無に帰するということ以上に、そういった特権も元々は自然に偶然の産物でしかなく、社会において支配するということの絶対的な理由にはなりえないということを自覚させることになるからである。このことは、出生原理をもとにする資格だけでなく、自然法を主張する資格についても同様である。確かにそれらによって自然との断絶が可能になるとしても、狩猟することに秀でているからIQが高いに至るまで、強者の弱者に対する支配の絶対性を主張することはできない。自然法というものも、ある視点から解釈されたあるひとつの自然法でしかないのである。またそういった自然法を引き合いにだす優れた者の資格も、自らの意志のみで卓越した能力が獲得できるわけでもないという意味で、偶然による自然的差異をそこから完全に払拭することはできないのである。7番目の資格は、結局、自然的差異を社会的支配関係のなかに持ち込まないという意味で、自然との断絶を意図する政治にもっとも適した資格であると言える。この資格は、便宜上、支配するための資格リストのなかに載せられているが、実際は支配することも支配されることも拒むような、全くアナーキーなものであると、ランシエールは言う。統治とは無関係なこのアナーキーなものを、無秩序を好む無政府主義というような意味としては、もはや理解することはできないであろう。ランシエールは、ここに国制としてのデモクラシーに対する懐疑的な態度をとるプラトンが、デモクラシーを価値ないものとして拒否できないアンビバレントな立場を示していると考える。
 デモクラシーは、統治とは無関係なものである限り、社会のなかで支配することを要請するものではない。それは、政治という名で実践される唯一の活動であり、それを可能にするヘテロトピックな場の創造行為である。ヘテロトピックな場というものは、結局、一切の支配資格を偶然なものとしてそれに相応しい場所、つまり自然に送り返すことで創造される、政治的なものが議論される場と言えるのである。こういった考えは、実際に支配する資格を所持している者らにとっても、無視することができない有意義なものである。それというのも、デモクラシーという資格はすべての人間に平等に分与されているという理由からではなく、統治することの正当性に寄与することになるからである。現実社会での統治は、1~6の資格とそれらの混合によって行われている。資格を所持している者がそれを所持していない者を支配するということを承認するにしても、知識ある者と富裕者の間に見られるような異なる資格を所持している者らの支配関係や、あるいはまた、年長者と平民の間に見られるような異なる資格に対する有無の支配関係を正当化する理由は、自然のなかで探し回っても全く存在しないことに気づくからである。したがって、多様な社会が共存する国家体制のなかで、ある一つの資格によってすべてを統合するのだとするなら、すべてを支配形式を横断することができるデモクラシーという資格が必要となるわけである。
 
 知識ある者、無知な者、富裕者、平民、老若男女、アラブ人、フランス人、イスラム、黒人、バンリューザー。同じ国旗の下で生活を営むすべての者が、同じ立場でいるのではない。そして立場の差異は、そこで日々直面する問題とそれから提起される問題の差異として明らかになる。なぜなら、問題を提起するということ(poser un problème / une question)は、自分が置かれた立場(postion)から為されるからである。「私は君と立場が違う」などと言うことはよく耳にするが、それが意味するのは「私と君と抱えている問題が違う」とか「守らねばならぬ問題が違う」とかいうことだろう。そして、それは提起される問題によって差異が明らかになるのだ。しかしながら、発言された内容やお互いの立場を理解し合う以前に、発言されるものをたんなる声、雑音でなく、言葉として聞くという中立的な場の形成が必要となる。支配するということは、一方的に行われるものではなく、常に支配される者との確認が必要である。そして、それは暴力によるものでないならば、デモクラシーによってのみ可能になる。
 デモクラシーの憎悪。それは、政治を可能にするヘテロトピックな議論の場を破壊しようとする諸々の反勢力。出生原理を尊重するユダヤの名で象徴されるものであり、ラシズムであり、公的なものを私有化する資本主義であり、美化された個人主義であり、無制限なデモクラシーの悪しき仮面をつけた全体主義である。これらすべての名に勝利を与えないためにはどうするか。それについては、各自がIDカードを捨てて考えることだと思われる。
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2005.12.11[Sun] Post 06:46  CO:0  TB:0  未分類  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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