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仏暴動について 3 (ランシエール・平等)

 デモクラシーという名のもとで正当化されている数々の行為、それによって明らかになる多くの矛盾。現代人が置かれている困難な状況を、文学的にさらにドラマティックに書くことはできるだろう。あるいは、美化されたデモクラシーによる諸々の功罪を、素朴な進歩主義者の立場から、たんなる理性の詭計として、進歩するためのいわば必要悪のように語ることもできるだろう。しかしながら、表現のスタイルがどうであれ、たんなる悲惨な状況の記述だけで終わるなら、そこには生産的な思考が欠けた陰鬱のようになってしまう。無論、それらを思考するための、資料として使用することはできるのであるが。知識人と呼ばれる者らが暴動後に新聞・雑誌に寄稿したものなかにも、悲愴感に漂いながらも決して捨て去ることのないニヒルな笑みでもって状況と戯れる者はいる。例えば、「現代ヨーロッパの崩壊」の著者は、紙面上に「我燃やす、故に我有り」(shibaさん訳とコメント)と書く瞬間、まるでそこで昇天しているかのようである。産むことに消沈した言葉によって、新しいものが流産させられないように用心しておこう。 
*
 こういった時代の空気のなか、ランシエールがデモクラシーという言葉の再評価を試みは、主に二つの書を参照にして行われている。ひとつは、イラクへの軍事介入のさかなに仏で出版されたJ-Cミルネーの論争的書Les Penchants criminals de l’Europe démocratiqueであり、もうひとつは、プラトンの「国家論」第八巻である。まずはミルネーの書であるが、ヨーロッパのデモクラシーはナチスによるユダヤ人大量殺害とともに誕生し、それによって見いだされた政治的領域内で、現在もなお追従されているというようなことが書かれている。(この書のレジュメ)ランシエールはこの書から、デモクラシーとユダヤという二つの名で表現されている対立項を引き出してくる。簡単に図式化すると次のようになる。デモクラシーという名は、ユダヤという名のいわば否定なのであるが、後者によって象徴されているものは、血縁・遺伝子など出生の原理を尊重した人間性の系譜であり、前者はこの原理を忘却した人間性である。ここで挙げられている二つの名は、ランシエールが言う政治的なものを考えるためのカテゴリーでしかない。したがって、ユダヤという名で批判されるものが、即時的にユダヤ人批判に結びつくのではないことは、最初に断っておく必要があるかもしれない。ランシエールによると、ここで言われるユダヤの名に象徴される原理は、あらゆる社会・国家のなかで見られる自然的な秩序を構成している原理である。そして彼が考える政治というものは、この原理を拠りどころにする秩序が一時的に揺らぐ場にしか存在しえないというのである。換言すると、自然的秩序を正当化している原理そのものの、権威的な効力が忘却される時に出現する場でのみ、政治が存在するということである。デモクラシーという名が意味するものは、こういった政治が可能となる場でしか思考することができないとランシエールは主張する。そしてこの観点からランシエールは、プラトンが「国家論」にてデモクラシーについて述べている部分の批判的解釈を行うことになる。

 プラトンは「国家論」のなかで、ひとつの理想的国家について述べている。それによると、理想国は三つの階級(統治・軍事・職人などの生活共有財の生産)によって構成されており、それぞれは明確に区別されている。この区分の仕方は、プラトン哲学においては生命原理とも言える魂の区分(理性的・情念的・欲求的)と呼応している。理想国とは、魂の善き在り方に似せて創られるということ、そういった魂のモデルが人間社会として具象化したものとして、プラトンには思考されている。したがって、魂について述べられているものは、理想国について述べられていることと一致するわけである。ここから、いかにして善き魂というモデルを人間社会の構造に適応させるかという問題が提起されるが、ランシエールにとって重要な問いではない。重要なことは、ひとつの全体として考えられる魂や理想国と、それらを構成する諸部分の関係から提起される問題について考えることである。プラトンによって区分される魂(全体)の諸部分には、全体に奉仕するための目的が割り与えられている。自らが達成すべき目的という見地から区分された諸部分は、全体のなかに独自の領域を持つということである。例えば、真なるものの認識は、魂の理性的部分によってのみ可能となるとされており、他の二つの部分が関与し混ざりあうことによって、そこから遠ざかると言われている。つまり、混乱した魂の状態と呼ぶことができよう。そしてこれと同じことが、理想国に対しても言われているのである。
 見方によっては、三つの階級をさらに細かく分割することもできるだろう。しかしながら、そういったことはここでは重要ではない。重要なことは、それぞれの能力が行使される領域が明確に限定され、そこで充てがわれている専門職に各自が集中することが善しとされているということである。つまり、自分が配置されている領域以外のことは、考える必要も知ること必要もないということであるが、社会問題や政治に関することもその専門家に任せておけばいいということになる。真の認識における魂の善き在り方と同様、理想国においては能力別に分有された仕事を各自が責任を持って遂行するということ、そして他の領域には干渉しないということが条件として定義されているのである。しかしながら、この国は諸部分の単純な総和としては理解できない。なぜならば、自分以外の他の諸部分を統率する部分があるからである。したがって、全体を構成する諸部分は横に並べられていると言うよりも、必然的に上部構造と下部構造というような関係で示されるようである。そしてこの理想国には、統率の統率を任される者、ひとりの哲人と言えるような者が君臨していることも述べておく必要があるだろう。
 プラトンにとって、民主制という国制が、どれほど理想国から遠ざかっているかは、理解されることと思われる。平等と自由という原理によって統一されている国は、ばらばらな部分の総和といったようなもので、統合とはいえないような状態であるようだ。また統率性を欠くことで混乱した状態、さらにはアナーキーな状態に陥るのも、時間の問題であるということである。こういった民主制に特有の混乱状態から秩序崩壊についての記述は、「国家論」第八巻で読むことができる。「父は、子に似たものとなり、息子たちを怖れることを習慣とし、他方、子は、父に似たものとなり、また、自分が自由であることのためなら、両親に恥じる気持ちも怖れもいだかぬことを習慣とする。」「教師は生徒を怖れて、これにへつらうし、生徒のほうは、教師を蔑ろにする。」「若者たちは、ことばにおいても、行為においても、より年老いた人たちを真似て、これと熱心に競い、老人たちは、若者たちの線まで身を落としながら彼らを模倣し、快活さや機知で身をふくらませるのだ。自分たちが、面白くないやつとか、暴君めいたやつなどと思われたくないというわけでね」562d-563a プラトンのこの記述が、驚くほどに現実の社会と一致することに気づかれるだろう。民主制の社会では、その原理から引き出される極端な帰結として、教師/生徒・主人/奴隷・年長者/年少者などの関係が一斉に転倒する契機を見ることができるのである。
 ランシエールがここで注目するものは、これまで述べてきたような、統治者側から見られたデモクラシーの悪しき面ではない。まずデモクラシー的勢力によって、これらの諸関係が一斉に転倒するという、プラトンが生きた時代から2500年経た現在でも確認できる事実である。そのことは、これらの転倒される諸関係が、同一の自然に属しているという事実を、われわれに教えてくれると言うのである。言うなれば、支配する者と支配される者を区別する原理というものが、教師/生徒・主人/奴隷・年長者/年少者などの諸関係を規定する原理として一様に機能しているということである。そしてこの原理は、まず人間的習慣による秩序と自然的秩序との間の連続性を確保し、さらに社会的秩序と支配・統治の秩序間の連続性を保証するものとして作用することになると言うのである。(45)結局、社会全体を秩序立てている諸々の権威的なものは、自然によって形成される支配関係と同質の原理によって規定されているということである。
 政治というものは本来的に自然的なものとの断絶によってのみ存在するのではなかろうかと、ここで再度問いてみる必要があるとランシエールは言う。その場合プラトンによって例示されている自然の延長による諸支配関係の転倒は、民主制社会での現象あるいは劇画以上のことを示唆しているのではないか。政治をたんなる秩序の維持や統治の目標とする、支配する者から支配される者への権力の合法的行使という点から見れば、デモクラシー的勢力はアナーキーな状態を準備する、身勝手な個人のライフスタイルのようなものとして否定されるだろう。そこから、デモクラシーに対する憎悪を語ることもできるだろう。しかしながら、政治というものを社会に持ち込まれている自然的なものに対する活動とするなら、デモクラシーという名で実践されるもののなかに肯定されるべき要素もあるであろうということである。ランシエールのデモクラシーに対する確執は、それによって意味される「自由」というよりはむしろ「平等」という理念に対するところにあると思われる。そして政治という活動によって問題提起されるものは、つねに「平等」という理念の実現にあるからである。

 「平等」など存在しないという輩もいるだろう。しかしそういう者も、存在しないと主張するときに、「平等」という理念が何を意味しているかのイメージぐらいは漠然と持っているだろう。平等というものが存在しないなら、創る必要があると言える。少なくとも言えることは、平等は自然のなかでは発見することのできないものであり、また歴史のなかで自然的に発生するものでもないということだ。なぜならば、自然のなかにあるものは、差異だけであるからである。社会のなかで平等というものは、すべて創造されてきたものであり、時に血なまぐさい闘争を経て勝ちとったものである。それはつまり、歴史的・社会的な概念であるということであるが、またそれと同時に社会的な不平等も形成されるのである。平等など存在しないという者も、過去の遺産であるいくつかの平等は立派に消費しているのである。ただ自らが恩恵を受けていないと感じるものからだけ、その存在を否定しているのだろう。新たなものを産むことに疲れた、ニヒリズムの一形式である。
 さてランシエールが提唱する平等は何であるか。それは、富の分配とか、プラトンの理想国で描かれている、あたかも自然に規定されている上部階級へのアクセスを可能にする機会の平等とかでない。私利私欲を追求するために保証されている自由行使の諸々の条件に関する平等ではない。それはもっとも政治的な意味での平等であり、政治的なもの、つまり公共の問題に関与する平等であり、それらに対して発言するという平等である。ここで、ランシエールが95年に出版した書、「不和」の最初のページで提起されるテーゼへと、われわれを引き戻すことになる。ランシエールは、アリストテレスの「政治学」の一節を引用することで、次のように述べている。人間が他の動物と異なるのも、快不快を伝達し合う声だけでなく、何が有益で有害であるのか、何が正義で不正であるのかを表明する言語を持っているからである。(アリストテレス・政治学I,1253a9-18)アリストテレスの有名なテーゼで、人間は社会的動物であるというものがあるが、このテーゼとともに上の引用を解釈するなら、人間は社会のなかで有益/有害・正義/不正という、快不快以上のものを伝達する能力を持ち合わせている動物であるということになる。何が有益で正義であるかを発言する能力が人間を特徴づけるものとして自然に分与されているとするなら、共同生活のなかで公共に関することがらを巡っての発言権などは特に問題にすることではないだろう。しかしながら、現実の社会では事情が異なることを、われわれは知っている。そこではあたかも一部の人間だけに、発言することが許可されているようである。発言資格を分与されていない者らの声は、快不快を表現する叫びでしかないということである。そういった者は、必然的に、人間ではないただの動物として扱われているということになる。(これについては、バディウの証言のところで少し触れた。)
 公共問題について発言が許可されている者は、統治することに携わる者であることは、すでに述べてきたことから理解されると思われる。このことは、われわれ馴染み深い代表制民主主義という法治国家においても同様である。ランシエールによると、代表制・民主主義は今日では冗語句のように理解されているが、元々は矛盾形容句でしかないという。したがって、厳密にはデモクラシーという名で呼ぶには相応しくないという。こういった政治体制は、現在ならば富裕者など支配あるいは統治することを、あたかも自然的に許されているような少数による統治形式、つまり寡頭制を母体にした統治形式の変形でしかない。代表制とは、国土拡大などの理由から歴史的に不可能になった、ギリシャの都市国家で見られる直接民主制の、近代国家への適応・発展型ではない。反対が真であり、歴史のなかで台頭してきたデモクラシー理念を徐々に取り入れるようになった、寡頭制の妥協形式として理解されると、ランシエールは言うのである。61 代表制民主主義のなかで、市民は自由に発言することが自由が許されていると反論する向きもあるかもしれない。確かにそうである。しかしながら、民主主義のなかにいるという今日でも、プラトンが描くような理想国で見るような階層のはっきりしたテクノクラシーの社会体制のなかでは、発言された内容だけでなく、発言自体も同等に扱われることはない。社会的不平等とは、まずこういったものである。同じ意見を言うのでも、社会的地位あるいは肩書きといった、権威的なものが付加される必要があるのである。(これについても、バディウの証言のところで少し触れた。) 

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2005.12.11[Sun] Post 06:42  CO:0  TB:0  未分類  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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