Air du Temps

フランスのアクチュアリテ

PROFIL

chaosmos

Auteur:chaosmos
動物占い クジラ
家電占い 家庭用ゲーム機
山手線占い 渋谷
哲学者占い フーコー
日本歴史占い 猿飛び佐助
前世占い 将軍

ARTICLES RECENTS

RECHERCHE

ブロとも申請フォーム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET
※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://chaosmos.blog11.fc2.com/tb.php/56-f8e33e63
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

仏暴動について 1

 先の暴動に関して何か書いてみたいと思ったので久しぶりにUP。長くなってしまったので、いくつかに分けました。
*
 フランスというひとつの政治的実験場で起こった一連の暴動騒動。国内のみならず諸外国に対しても、大きな衝撃を与えることになった。暴動後に一斉に企画されたルポタージュなどを見て、改めてフランスが抱える諸問題の深刻さを実感したのであるが、一方で暴動に加わった若者も含め、市民の誰もが望んではいなかったであろう最悪の事態に到るまで、なぜ同国が多くの問題を解決できないまま、それらを放置していたかについては、いまだに理解に苦しむ点が多く残っている。なぜならば、政治家のみならず政治にさほど興味を持たない市民であっても、暴動が突起した地域に不幸にも根ざしている社会問題の数々が存在していることぐらいは、周知のことがらであるように思えるからである。
 事態が沈静化してからというものの、いまだに緊張した状態が続いている。しかしそれは、暴動がいつ再発するかわからないという不安からではない。それは多くを思考することを要請するかのように生起した今回の出来事を、たんなる社会現象のひとつとして扱うことで、5年毎に開催される政のイベントのために準備されているディスクールから生じる不安のうちにある。こういったディスクールは、現行政府の舵取りを任されている多数派ら-つまり、現在もっとも強い少数派-によってだけで作成され、流布されているのではない。メディアに頻繁に顔を出す知識人と呼ばれる一部の陣営も、そこに加担しているという次第である。彼らにとって「移民」とか「郊外(バンリュー)」という名は、今やもっとも軽蔑されるべき名でしかないようである。しかしながらそう考えることで、多くのことを忘却しようとしている。フランスといえども、たんにフランス人だけの労働によって建てられたというのは質の悪い冗談か幻想でしかない。国力を上げるために必要とされた高度成長期の移民大量移入、またさらに遡るなら植民地時代から継続するアフリカ諸国に対して行ったことなど、歴史が教えてくれる過去の事実を無視できないものとするならば、いかに多くの移民らの労働上にこの国の繁栄が支えられているかが理解できるであろう。何か自然にそこにあるように感じられ、使用されている公共財の多くも、軽蔑される移民らの手によって造られたものかもしれない。歴史を忘却することで、その延長でしかない現在について語ることだけは避けたいものである。移民は排除されなくてはいけない。確かにそうであると言える。しかしながら、それは移民を彼らの国に追い返すことや、都市部から離れた地区に追いやることではなく、自分らの頭のなかに棲んでいる悪しきカテゴリーとしての「移民」こそが、そこから排除されるべきであろう。
 ある者は暴動を起こした若者が悪いと言う。そして他の者は国の政策が悪いと言い、そこに直接関与している政治家らを非難する。しかしながら、今回の暴動が多様な要因で絡み合った諸問題の、あるひとつの帰結であるならば、それらの問題に比例した形で原因も存在するわけである。したがって暴動の原因を唯一の原因に還元することや、ある特定の人間だけに責任を負わせることは、不可能である以上に危険ですらある。ひとつの社会システムとそれによって支配された思考によって抑圧されてきたものが、暴動という社会的ヒステリーとして突出したのであるなら、まず疑われてよいのものはシステムの不良性である。バグの多いOSのように、多少の問題はパッチをあてることで改良されることもあるが、処理する情報量が多岐にわたり頻繁に機能が停止する場合には、大幅なヴァージョンアップが必要となるわけである。

 さて問題は何であろうか。問題の提起と解決についてベルクソンは、ひとつの興味深い考えを次のように述べている。「問題を解決することよりも、問題を見いだすことしたがって問題を提起することが肝腎である。・・・真の大問題は解決される時にしか提出されない」ということである。ある問題を解決することが重要でないということではなく、それ以前に問題を正しく提起することが何よりも重要であるという意味である。実際、思弁的問題について特に言えることであるが、問題の解決というものは、当の問題が提起される仕方によって指示されており、提起された問題の論理的展開と帰結でしかないのである。この場合、ある問題の解決は、当の問題の解答としては必然的に正しいということになる。しかしながら、提起された問題に対する解決が正しいということが、直ちに現実世界で要請されている問題(ここでは便宜上、真の問題と言うことができる)の解決として適っているということとは別のことである。このことを具体的な例でもって考えると、理解しやすいと思われる。解決すべき真の問題を失業問題だとする。あるひとが、フランスでの失業者の増加は、移民増加に比例していると言うとする。ここでは、失業率の問題が、移民増加の問題として新たに提起され、その解決は必然的に移民数を抑えることが真であるということになる。一方で、ここで言われる解決策が、真の問題(ここでは失業問題)の正しい解決であるとは、必ずしも言うことができないということである。(ベルクソン la pensée et le mouvement pp51-53「思想と動くもの」岩波文庫pp74-77
 また、問題提起の重要性を述べている同じページでベルクソンは、問題と解決の関係についてもう一つの興味深いことを言っている。それによると、問題はその解答集を持ってる先生が生徒に与えるようなものではないということである。ドゥルーズも好んでよく引用する部分であるが、こういった考えは社会的偏見によるものであると言っている。(差異と反復 puf p205)問題についての、先生と生徒に象徴される関係は、何も学校教育という場でのみ見られるものではない。例えばここで問題にしている、社会の問題・政治的なものが討議される場に関しても、同様のことが言えるのではないだろうか。つまり、問題について考え、提起するのは政治家や専門家であり、市民はそれを受けとることで、すでに問題提起のなかに折り込まれている解決に従うという図式が存在しているということである。社会の問題一般について討議される場が国会であり、そこに直接参加することを許可されているものは、選挙によって合法的に選出された議員だけであるということが、もし疑うことのできないひとつの事実であるなら、以下の記述は意味のないものになる。与党と野党とで構成される国会で、市民全員に関る諸々の社会問題が、政治問題として討議されている光景は、TVなどの中継で見ることはできる。ここでは、デモクラシーという言葉によって表現されている、ひとつの理念が実践されているということである。しかしながら、本当にそう言えるのかについて考えてみることはつねに可能なことである。

 TVの特別討論番組に招待される常連の政治家や専門家などは、口を揃えて彼らの考える「根本的問題」について語ることになる。「根底にある問題は・・・」というたんなるレトリックでしかない言葉のあとで提起されるもののリスト内には、「移民」というカテゴリーで呼ばれる市民らに対する差別問題はあまり見当たらない。少なくとも言えることは、差別に関する問題は、積極的に扱われる問題ではないということである。自由・平等・博愛を憲章とするこの国では、現存する差別について語ることは、まるでタブーであるかのようである。しかしながら、もしこの国に差別が存在しないというなら、暴動後、政府が各企業に対して改めて、無記名・写真不要の履歴書を奨励することなど必要ないはずである。具体的に差別がどのように存在するかをここでは列挙しないが、11/15日付のル・モンド紙に寄せられたひとつの証言を参考として紹介しておくことはいいかもしれない。それは哲学者バディウが、一人の黒人少年を養子として持つ父親の立場から書かれたものである。要旨は、氏の養子G君(仮名)が、おそらく肌の色が黒いという理由だけで、警察の世話になるということが過去一年半の間に6回に達するということが書かれている。その度ごとに、G君は不当な扱いを受け侮辱されることになるのであるが、無論、彼は罪を咎められることは何もしてないということである。しかしながら、そのような事実は、当の警察にとってはどうでもいいことらしい。警察からの連絡を受けG君を迎えに行く父バディウが、警部のデスク上で見るものは、おそらく警察が学校に提出を依頼した黒人生徒らのリストである。つまり、潜在的ごろつきとして、彼らから目を離すなということなのだろう。形式的に謝罪を受けるこの父子が、怒りを抑えられるわけではないのは当然である。その一方で、G君が郊外の若者であったなら、謝罪すらなかったであろうと自問することになる。国家に対する反感を表明する下りで終わるル・モンド紙に寄稿されたこの証言は、一市民として、ひとりの父親として書かれたものである。しかしながら、社会的地位のある哲学者バディウであるからこそ、ひとつの証言として公にされ、多くの市民に読まれるということも付け加えておく必要があるだろう。これとは反対に、郊外から発声されるものの大部分は、たんなる快不快を表現する叫びや雑音でしかないということである。これについての詳しい分析は、今年の9月にLa fabriqueから出版されたla haine de la déméocratieと95年にGaliléeから出版されたla mésententeのなかで展開される、ランシエールの政治理論を参照にするのが良いかと思われる。

スポンサーサイト
2005.12.11[Sun] Post 06:33  CO:0  TB:0  未分類  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET
※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

仏暴動について 1 のトラックバックアドレス
http://chaosmos.blog11.fc2.com/tb.php/56-f8e33e63
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。