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お邪魔します。翻訳ご苦労様です。翻訳の大変さは私も分かっているつもりなので、これらは本当に労作だと思います。しかしこうして読むとフィガロの論説はほんとにひどい書きようですねえ。
2005.08.14[Sun]  投稿者:dcsy  編集  Top▲

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プレスの中のアヴィニョン 3-2(リベ編)

・アヴィニョン・フェスティヴァルで引起された諸論争は進歩拒絶のサインであるのか?
 斬新さが演劇の未来を左右する Par Salvador GARCIA 
 Salvador Garcia est directeur de Bonlieu, Scene nationale d'Annecy. 28/07 リベラシオン紙

*
 アヴィニヨンからアーティストは消え、ペテン師が増えるということを想像することは困難である。アームストロングはドーピングしているのだろう。イギリス人はパリの目と鼻の先で、いかさまをしたに違いない。レフェランドムで天秤にかけられた国民は思い違いをし、政治家らはテロ標的の順番待ちリスト上のしかるべきところにパリを位置づけることで、不安を巧みに伝播することになる。恐怖は誰の得になるのだろうか?

 このようにあるひとつのとてつもない混乱が根づいた状態において、やることなすことすべては単なる欺瞞でしかないのであろうか。そして世界そのものも卓越し教養に満ちたフランス的思考によって、すぐさま転倒させるようなひとつの仮面をただ被っているだけなのだろうか。

 アヴィニョンでも然り、混乱はその絶頂に達していたわけである。世論を形成する文化的環境のなかで、好戦的態度でもって時には発言された最悪のものまで、人々はすべてを耳にしたのである。

 しかしながらこの混乱のなかでも、いくつかの指標的価値は存在する。われわれは久しい以前より、芸術の展示場あるいは大掛かりな実演場において、オブジェを産出あるいは寄託するひとりの個人が芸術家であるということは、マルセル・デュシャンと彼の有名な便器(泉)以来、疑う余地のないものとなっている。そして、ただ鑑識家ひとりが法規に対する不法侵入者を判断できること、そして判事と当事者側の立場に競争相手が立つのではないということは周知のことである。また、市民の投票に委ねることは、民主主義の基盤を取り戻すことに等しいことも承知している。さらには、恐怖心にかられて行動してはならないことも知っている。

 これは良識であり、たとえ卓越し教養に満ちたものであるにせよ、いくつかの波乱を乗り越えることで、思考が前進しようとするときには、失ってはならない有意義なことである。

 さて何が起こったのか。明らかに効力のないものから諸行為、あるいは諸思考の総体を産出するに到るほどまで、いかにしてひとはこの点に対して一斉に過ちを犯すことになるのか?一連の権威的諸集団と、一度には回転することはない諸々の利害によって、あたかもフランス社会が新たに行く手を遮られているかのように、一切は過ぎ去っているのである。これらのサークル(政治、スポーツ、文化)、<わたしたち的集団>のこれらの貧困なしきたりによっては、自身が保持している実存的論理を、自分らが欲するような世界ではなく、あるがままの世界を見て取るために超出するまでには到らない。存在するため、これら各サークルは、自分らの規則、つまりは諸個人の帰属コード・規範を集団的・保護的な<つまらないわれわれ>の部類へと規定するような規則というものを、過剰生産する運命にあるわけである。ひとは、民主主義の機構について長々と語るが、それもただかくかく然々の党派という枠組み内でのことであって、あるひとつの芸術作品の承認について芸術界のなかで討論し、諸々の規則についての性質と国際オリンピック委員会の不公平さについて議論し、さらにはまたテロの脅威に対して十二分に意識していないという理由から、われわれに罪の意識を植えつけ、おびえさせるのではあるが、あるがままの世界を理解するためではなく、かくかく然々のテーマ上での<拒絶に関するつまらない前線>をこしらえながら、これらのちっぽけな共同体での内輪の絆を再度深めるために向けられた討論があるだけ、議論がなされるのである。消えてなくなってしまう恐怖によって目が見えなくなった状態で、一同が揃ってそこに首をつっこむというわけだ。ひとは規則を形成し、規範を産出し、お互いが再認しやすくなる目的で締め出しを行っている。

 アヴィニョンにて、ちっぽけな<わたしたち的文化>は、それでも並外れた矛盾の数々を生き抜いたのであるが、ある反対連合から身をほぼ防御したのである。演劇の未来のため、失望させる観客のため、フェスティヴァルの将来のために等々、危険だと判断されたある種の芸術的命題の特異性と異質性を前に、抵抗したのである。観客はと言えば、いつものようにそこにいたわけであり、大多数の人間は裁判するのでなく、ただ鑑賞するためにいたのである。

 しかしながら、われわれがいま共有しているこの<わたしたち的文化>は古ぼけたということ、おそらくは憔悴したということ、観客もまた同様に年を取ったということ、そしてアヴィニョン演劇祭ならびに芸術一般の現場の未来は、この<わたしたち的文化>と観客らとの更新を経ることになるだろうことを、われわれは知っている。したがって将来のためには、アーティストと主催者らに対し、さらにいっそうの斬新さが求められることでしょう。問題は、われわれをもはや集結させないある芸術の法規化ではなく、他所と同じようにここでも、例外を認めること、そして例外を思考することが問題である。
 
 舞台上でオマールえびを解体した廉による身柄拘束はほぼ終わったと、Rodrigo Garcia はわたしに語っている。劇場の傍らに位置する大きなレストラン・フロランタンにて、ある裕福な口を通して、非常に高い値段で、がつがつ飲み込まれる前に、おそらくは同じ運命を受けることになるただのオマールえびを、もっとも偉大な料理シェフ風に、芸術の規定に従って彼はそうしたのであった。例外を管理することに対してまたしても無能な規則に目がくらむ。

 アヴィニョンの喧騒にも関らず、それは、猛暑のなか、あるいは深夜に、自分らの言い分を聞いてもらうよう努めていた、他に類をみない囁きなのである。NON、恐怖がわれわれを食入るように見つめたままにすべきでない(Thomas Ostermeïer/Anéantis de Sarah Kane)、自分自身の悪夢だけがおそらく心配なのだ。OUI、心に秘めた詩的プリズムを通して世界を見ることができるのであり、自分たちの例のちっぽけな<わたしたち的サークル>(Jan Fabre)らが、期間中ずっと校訂した諸規則の総体によって創りだすヴィジョンと、それは同じぐらい有意義なことである。OUI、残酷さは世界の基礎と一体化しているのであるが、男性そして女性がもつ知的な美と脆さのなかで希望は常に存在する。(Jacques Delcuvellerie/Anathème) OUI、われわれの唯一共有された価値において、信頼をぎこちない仕方で囁きつつも、次のことを恐れず遠慮なしに言うことはいまだ可能である。時間だ、気をつけろ。より良い時を共にするためには、時代の諸価値において時を修復すべきであり、われわれが欲するような世界ではなく、ありのままの世界を承認するように、時を受入れるべきだろう。 (Pascal Rambert/After Before) この時間の連続した冒険のなかでは、思考が断続性で苦しむことはない。(Rodrigo Garcia) 

 この囁きに耳を傾けることが困難になるほど、唯一の批判対象になった作品群の形式、あるいは規定に関する諸々のコメントは、それを覆い隠す傾向にあった。芸術を気取った現代的ヴィジョンに傾倒する諸々のコメント、それは言うなれば、月を指し示された時に愚か者は、(月ではなく)それを指している指を見ているという類のものだ。われわれは一斉に、愚か者となる途上にいるのであろうか?

 これら個人的に衝撃を与えるもののリストは長くなるだろうし、結局のところ、そういったリストが観客の経験ごとに異なることを、われわれは知っている。けれども、これらすべての対象とアーティストらが、恐怖に対する真の処方、知性をともなう処世術の真の手引きに関する諸々の徴候を描写している、ということに変りはない。ここで言われている知性とは、人間と世界を変革しよう欲する諸々のイデオロギーの基盤にもなる知性の類型というような、嫌みな意味としては捉えない。文字通りに取られた、もっとも単純な意味としての知性がここでは問題ではなく、ありのままの世界と一致することのできる才能、能力が問題である。そういった世界を、諦観なしで、知性によって受け入れることのできる才能。隣人と仲良く暮らすことと言われるように、他者、アーティスト、別のサークルに属する者と、良い関係のなかで生きること。知性の義務は、つまり、新たに世界を愛するため、そして自分自身を愛するための、唯一の手段であろう。恐怖に対するひとつしかない解毒剤、醜悪さの裏をかき、そこから悪夢を追い立てることのたった一つの手段であろう。

 アーティストのみなさん、ありがとう。2005年版アヴィニヨンフェスティヴァルに感謝。
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2005.08.11[Thu] Post 19:10  CO:1  TB:0  文化  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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