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左翼の日記(後編)

金曜日・・・生政治あるいはバイオメトリック
かつて多くの哲学者が「国家論」を書いていた時代があった。現代の課題は、国家などは乗り越えられるべきものとはいえ、何もこれらを読まずに済まそうというわけではない。これからも読まれるべきである。とはいえ、今日的なコンテクストのなかで、どのように読むか、つまりどのように活用するかが問題になる。別にひとつの理想国家を考えたり、ましてやそういった国家を実現するための手段を練るためではないだろう。これについては、近代の哲学者らがなぜ国家論などを書く必要があったのか、彼らの意向を汲み取ってみる必要がある。そもそも彼らの国家論というものは、当時権威的であった教会を批判するために書かれ、教会権力によって支配され管理されるのとは、異なる生き方や、現実とは異なる新たな共存システムを考案するためだと思われる。ここでも左翼的なものを発見することが重要となるだろう。言うなれば、かつての教会がそうであったように、しかも当時とは比較にならないほどの技術でもって、生に対する反動的・否定的な管理・権力装置をいたるところに張り巡らす国家を批判するために活用することである。国家があからさまに生政治を企てているような時代に突入している今、もはや国民とか国益とか言いながら、のんきに構えているような暇はないと思われる。近代の国家論などは読む時間がないと言われても困ってしまうのだが、それじゃフーコーのどれか一冊ぐらい読んでもいいのでは?それも時間ないなら、下にリンクをつけたアガンベンの記事でもいいよ。
生政治。9.11以降、世界的とは言っても経済大国だけの内輪話であるが、セキュリティーに関する異常なまでの反応には、いわゆるテロに巻き込まれるかという以上に、なんとも耐え難い時代へとスライドしていく不安や嫌悪感のほうが大きい。アメリカに続いて日本でも、昨年の11.20から入国審査で外国人に対する指紋採取と顔写真の提供というものが施行されてしまった。そんな法案が準備されていることなど、数ヶ月前に日本に研修に行った知り合いから、反対署名メールが来るまで不覚にも知らなかった。昨年の10月のことである。国民の多くは「テロの未然防止に関する行動計画」として、政府の決定を承認していることだろう。国益ということで正当化できるのである。テロは恐いし、外国人に関することだから、何だかよくわからないけどとりあえず由というわけだ。これについて、マスコミの反応がどういうものだったか詳しいことは知らない。でも、一部の市民や団体から反対の声があがらなかったわけではない。それはだいたい次のようなものである。ひとつには、科学者らによるもので、技術面での信頼性に関する批判である。バイオメトリックのリーダーの性能についてであるが、こういう話題は特許絡みとかに帰することが多い。それはそうとして、もし技術的な面だけが問題ならば、例えば現在問題になっている農業における遺伝子組替えについての論争と同様に、技術が進歩することでクリアされることになる。(GMOにしても技術だけの問題ではないだろう。人体への直接的な影響とかより、生態系に関わることなんだけど。だいたい温暖化とかの異常気象についてもそうだけど、ある複雑系で起こることがらを、あらかじめ人間が計算してコントロールすることなどできないように思うのだが。神は死んだはいいけれど、その空席にすかさず座ろうとするのは、老いぼれの右翼だ。)もうひとつは、各人権団体によるもので、外国人渡航者を「潜在的犯罪者」として扱うことなかれという批判である。一見すると、こちらのほうは科学者のそれよりも、入国審査のやり方そのものを問題にしているように思われる。ただ、この批判に続いてなされるものには、まったく説得力がない。それは、こういった排他的なやり方によって外国人観光客が減るのも必至だというものである。これではせっかく人権を擁護しているような批判も台無しになる。他者の立場に一挙に身を置いているかのように思われたものが、今度は反対に自己から始めるような利害関係の視点に戻ってしまっているからである。何か日本の対外的なイメージを危惧するようなことを隠蔽しているような批判は、本題からずれるだろう。これではネグリ入国禁止騒動のときに、中国・韓国も含めた世界22ヶ国では問題にならなかったという事実を指摘することで、政府に恥を知れとか言っているのと同じである。世界のなかで日本がどう思われるかなどは、はっきり言って重要ではない。イメージでも、フランス風にイマージュでもいいが、そうじゃないだろう。
これについては、アガンベンの以下の文章を読んで頂きたい。日本に先立ってアメリカでは、2004/9/30に現行の入国審査へと改定されることになるのだが、それは9.11を経て3年後のことである。これにともないアガンベンは、その年に予定されていたNY大での講義をキャンセルすることになる。その理由について述べたものが、ル・モンド紙に寄せた記事である。現在、Multitudeのサイトに転載されているこの記事は必読。非常に重要であるので、どなたかすでに訳されているかと検索をかけてみたところ、中山元訳をネット上で見つけた。メルマガで2004年に配信されたようなので、ご存知の方も多いかと思う。明解な文章なので、原文に特に説明することも、付加することも必要ないだろう。目下のところ、テロや不法入国者を未然に摘発する対策として、自国を訪問する外国人が対象となっているが、それは最終的にバイオメトリックの新技術を国民全体へと適用するための口実でしかないと、アガンベンは言っている。生政治である。外国人だから別にいいや、すべて国益のためなどと言っている場合か。
ヨーロッパ諸国でも、バイオメトリックのIDカードを実用化する計画は着実に進んでいる。どこの国の政府もセキュリティー一言で、その必然性を正当化しているのが現状である。アガンベンの記事からも理解されるように、最初はIDカードにだけ適用される管理システムが、いずれあらゆる個人情報が統合されていくことも考えられるだろう。オール・イン・ワンIDカードである。そうなれば、今、自分がどこにいるかだけでなく、何をしているのかなどの詳細な情報が、内務省のサーバーへ送信され、死ぬまで管理されるということだ。プライバシーなんかありゃしない。それは、別に出来の悪いプログラムがある日バグって、外部に個人情報が漏れることなど心配しなくとも、基本的に同じことである。

土曜日・・・朝生
「朝まで生テレビ」という討論番組が、現在でも放映されていることを、内田樹ブログの最近のエントリー「国を愛することはどういうことか」で知った。この番組は、これまでに2-3回見たことがある。もう随分前の話なので、その時のテーマが何だあったかなどは記憶にない。ただ議論が白熱してくるにつれ、各パネリストが話している内容よりも、本人らが話したいという快楽しか伝わって来なくなる頃には、ちょうど眠くなって番組を消したことは覚えている。さすがに夜通しやってるものはフランスには存在しないが、似たような討論番組は多くある。特に、選挙間際になるとその数は増える。複数が一斉に発言し収拾がつかなくなることは頻繁に起こるが、大抵その時は、順調に進んでいる事柄に対する功績を独占したがる時か、さもなければ反対に、ある問題が深刻化した原因を「お前らのとったこれこれの政策ミスだ」と相手に全責任を転嫁しようとする時である。これはこれで、たまに見るのは面白いのだが、内容が知りたいだけなら、翌日の新聞で要点を掻い摘んで解説している記事を読めば十分である。
さて「国を愛することは・・・」というエントリーだが、まず長崎市長銃殺事件について「朝生」で議論された夜、司会の田原総一朗氏がパネリストに向けて、「テロを支持するか」という問いを投じたことが書かれている。どういう流れでこの問い発せられたのかまではわからないが、提起の仕方の悪い問いだなとすぐに感じた。それについては、少し後で問題にする。ただ、これに対する回答のせいで、出演者の一人でもあった鈴木邦男氏が、右翼活動家ら別の出演者から一斉に非難を浴びたということらしい。WIKIを見るかぎり、かつてはテロを公然と肯定していた人ということだから、昔の同士から裏切り者扱いされても仕方ない。言わせておけばいいと思う。これについての自己批判的な後日談は、「失敗の愛国心」という書にまとめられ出版されたとのこと。「国を愛することは・・・」は、いわばこの書の覚書からなっており、その内容は表題が示すとおりである。
愛国心についての非常にモラリスト的な見解には、ほとんど賛同できないのだが、これについてとやかく言うつもりはない。ただ疑問に感じることがひとつあり、それについて少し述べておこう。それは「テロを支持するか」という問いについてである。鈴木さんにしろ内田さんにしろ、どうもこの問い自体の有効性については、ほとんど疑っていないような印象を受ける。そして疑っていないからこそ、この問いが要求する答えについて、真面目に考えていらっしゃるということである。別に皮肉を言うつもりはない。テロについて問題にすることは、言うまでもなく重要なことである。それはただ、テロというものが異常であるという理由からである。テロについて問うべきことは多くある。しかしながら、テロを支持するか否かという問いは、ナンセンスであるばかりか、場合によっては、テロがあるという現実から、最終的に目を背けることにしか役立たないように思われる。もしそうだとするならば、テロについて立てられる最悪の問いと見なされることにもなる。本来ならば、この問いそのものを批判するべきではなかろうか?同じ形式で問いを立てるにしても、例えば戦争や死刑の場合とは事情が異なるであろう。テロとは反対に、戦争や死刑については、それを支持するか否かという問いは有効であると思われる。ゆえに、それについての意向を述べることも必要であろう。ただし有効であると見なされるのも、それらが制度上の問題として議論されるかぎりのことであり、それ以外の理由で有効であるかということは、また別の問題である。しかしながら、制度化されているわけでもないテロについて、支持するか否かはどうかと思う。おそらく大多数の人が支持しないと言うだろう。そこで愛国心でも民主主義でもいいが、何らかの大義を引き合いにしつつ、支持しない理由を述べてみることが、どれほど重要なことかは理解に苦しむのである。テロが異常なことであることを、確認するのだけなら誰でもできるだろう。しかしながら、異常なことがなぜ発生するのかを考えることは困難である。異常なことが発生するのは、やはり異常な状況からであると思う。そこで、なぜそういう状況が形成されてしまうのか、誰の責任なのかなど、当の状況について徹底的に問いてみることのほうが、重要なのではないだろうか。こういった問いが立てられてしかるべき場を、二元論的不毛な問いで占拠し覆い隠すことは、それ自体がひとつの問題として提起されることになる。
テロに関して、ただ支持しない理由を述べてそれを糾弾することは、有害無益ではないか思われ、事実、独り善がりの自己完結的態度でしかないと言えるのである。こういった態度は、これまで述べてきたことに関連づけるなら、まさに右翼的態度と言えそうだ。たとえ右翼テロを告発するにせよ、支持か否かの問いに囚われるならば、また別の意味で右翼にとどまるということなのである。このことは、数年前にフランス全土で起こった、社会のヒステリーともいえる、例の郊外での暴動のときにも思ったことである。暴動を起こした若者を告発することは誰でもできるし簡単なことである。また、彼らが公共施設を破壊することで、共和国に対する冒涜だなどと言ってみることもできる。自分を愛せない者にどうして国を愛することができるのかと、言うのも可能であろう。だが、こういった考えはすでに、支持するか否かという提起の悪い問いのなかに折り込まれているものである。つまり、この手の問いに敢えて答えることで、そこから引き出される必然的な帰結だということである。そして今度は、帰結として手に入れたものを、いろんな方向へと回転させてみせるのだが、何か新しいものを得るわけではない。ただ内田さんが言うように、「国を愛することはどういうことか」という問いを、軽々しい答えによって消去しないというだけである。いわば長い対話の最後でみられる、ソクラテス的状態のことだが、どうせ懐疑をやるならば、別の問いに対してやってみるほうが、より生産的だと感じたわけである。つまり、テロ(あるいは暴動)を支持するか否かという問い自体にである。
先日、バスクでも元議員を狙ったETAによるテロがあった。総選挙期間中であることや、議員を狙った右翼活動家によるものという点では、長崎のケースと類似する点も多い。これについて誰かに支持するかなど言われても、正直言って困ってしまう。それは、テロが起こった政治的・歴史的背景に精通していないとか、そのことで客観的に判断できないとか、知識の問題からではない。繰り返すことになるが、答える必要がないからである。その代わりに、「なぜ」という問いを考えることを停止させるように仕向けている、この問いにはどれだけ重要な意味があるのかと言って、突き返してやればいいのである。

日曜日・・・テロ
フランスでもテロについて議論は多くなされている。政治家がこれを取り上げるときは、右も左も関係ないことを強調することから始めるのが、最近の通例となっている。これについては正しいと言える。しかしながら、問題に対する接し方から対処の仕方にいたるまで、右と左では異なる点が多くある。ここでも、ドゥルーズが言うような知覚が問題である。何時でも、とりあえず自分の利益は維持・確保しようとする右翼は、自己から始めて問題を扱おうとするあまり、諸々のテロ行為がなぜ起きるのかには、実際のところ、あまり興味がないように思われる。それは、彼らが提起する問い--テロが起こる現実で、それをどうやって未然に防ぐか--のなかでもすでに確認されることである。この問いは、テロが起こらないようにするにはどうするかと問うものではなく、テロが起こるという前提でしか妥当性をもたないと思われる。そういう次第だから、未然に防ぐにはどうするかと右翼が自問するときには、管理・監視システムのことしか頭に浮かばないのである。こういった考えがどこに行き着くかは、すでに述べたとおりである。監視カメラ・衛星システム・バイオメトリックというものである。テロの問題を、こういったセキュリティー装置へと性急に結びつけることは、どう考えてもおかしいし、どこか狂っているのである。ナイーヴだと思われても仕方ないが、一体何のためセキュリティーなのかと考えてしまう。誰にとってシステムなのか?誰が必要としているのか?と問いただしてみる必要がある。当たり前のことだが、そこには最先端の技術が投入されているわけである。またそれに伴い、莫大な資金はもちろんのこと、人間の知性やエネルギーが多大に投資されるということになる。単純に言うと、これらをもっと別の目的に利用することはできるのではないかと思うのである。例えば、日増しに深刻化する世界での貧困問題とかにである。いや、そのことは当然考えているし、現に援助などもだいぶ前からしているなどと言うだろう。それではさらにナイーヴに言うが、なぜ改善されないのか?改善されないどころか、地域格差は拡大する一方ではないか?事実、バディウやドゥルーズの対談からも理解できることだが、経済大国あるいは自称世界の治安監視国というものは、自らの存在理由というものを、まさに世界が分裂していなければならないという前提にして考えているのである。
ここで貧困問題を例にしたのも理由があり、フランスにおいてこの問題を、テロの問題と結びつけて考える人々が増えてきているからである。おそらく左翼の(仏)知識人のあいだでは、すでに周知のことであるだろうし、エッセイから理論書まで様々なスタイルで書かれた出版物も多くある。これら二つの問題を直結させ、平行して論じることはなくても、反グロ・反帝国をテーマにして書かれたものからならば、いくらでもこの相関関係について読者自身が考えることができるようになっている。活字が苦手という人も、ドキュメンタリーやルポルタージュなどから、見たり聞いたりはしているだろう。例えば、数ヶ月前にフランス国営テレビで放映されたルポルタージュに、貧困とテロの関係をダイレクトに扱っているものがあった。そこで取り上げられていたものは、昨年の4.11にアルジェリアで起こった自爆テロとその実行犯の出身でもある貧困地区についてである。このテロはアルカイダが犯行声明を発表している。その後、数回に渡ってアルジェリア国内で発生し、現在でも厳戒態勢が続いている。もっとも最近のものは、昨年の12.11に国連機関を狙ったものであり、多数の死傷者を出した悲惨なものだった。ちょうどその数日前には、サルコジが3日間の公式訪問を終えた矢先ということもあり、フランスでは大体的に報じられていた。いつものことながら、これに対する公式発言は、「いかなるテロも犯罪行為であり正当化できないことを再確認する」というものだが、支持しないは当然のこととして問題は何だということである。確かルポルタージュは、この数日後に(たまたま)放映されたものであったと記憶する。誤解されても困るので最初に断っておくと、以下の報告は別にテロを支持するとか、テロを正当化できるかというものではない。ルポルタージュを制作したジャーナリストも、そんなことを意図してカメラを回したのではないだろう。ただいつものように、不幸にも起こってしまったテロに対して糾弾するのは簡単だが、異常なものが生まれる背景には異常な事態が存在していることを、とりあえず知っておく必要があるということである。そして、そこから真の問題は何かについて、各自が考えてみる必要があるのではないかということである。こういったことに、改めて注意を促しておく必然性を感じるのも、正直疲れることであるが、誰が読んでいるかわからないので、必要かと思う次第である。
さて問題のルポルタージュは、アルジェリアの現状を簡単に紹介することから始まる。90年代のテロ暗黒時代から、徐々に回復しつつあるアルジェリアはここ数年、天然資源の貿易高などにより、景気はそれほど悪くないということらしい。有名ブランド店が立ち並ぶ地区もあれば、国内では初となる地下鉄工事も進行中であるという。(アフリカではカイロに次いで二番目。)このように表に現れる世界とは反対に、そこからわずか数キロ先の小高い丘にある貧困地区では、街灯も水道も整備されていない地区がある。天然ガスや石油を輸出している国でのことである。2キロ先の給水ポイントまで、一日何往復もする子供たちの姿。バラックでのすし詰め状態の生活。失業者は軒並み25%を超え、都市部郊外では80%に達する地区もあると報告されていた。特に若者の失業は深刻だというが、政府がどのようにこの問題に取り組んでいるのかまではわからない。アルジェリア人であることが恥ずかしいという者もいる。国家の経済システムから排除された若者たちは、裏社会で生きることを余儀なくされることになり、路上と刑務所往復に始まって、最後は質の悪い麻薬に依存というのが、そこでの日常ということらしい。4.11のテロ実行犯のひとりも、こういった貧困地区の出身者だったとされる。アルカイダが地元の過激派グループを併合し、マグレブ諸国へと活動拠点を広げてきたのは最近のことらしい。長い間テロと共存してきたアルジェリアも、自爆テロは昨年の4.11が初めてということだ。新たな暗黒時代に突入したということになる。アルカイダの組織は、社会から排除され行き場をなくした若者らを勧誘し、自爆テロへと仕立てあげている。テロ直前に撮影されたビデオのなかで、犯行声明を読み上げている姿は、すでに出来上がった一人の殉教者である。しかしながら、6ヶ月前に急に姿を消すまでは、原理主義とかモスケとかには、まったく縁のないやつだったと、実行犯をよく知る若者は言っていた。勧誘から洗脳までには、2-3ヶ月もあれば十分ということだが、さほど時間は要さないという意味なのだろう。もし家族に普通の生活が保障されるなら、組織の勧誘に対して断る理由は見当たらないと言う若者もいる。。。因みに、4.11の実行犯の家族は、以前と同じ生活をしている。どう考えても、何かが狂っている。異常だ。
問題は何か?こういった悲惨な証言を耳にすることで、彼らを同情してやることだろうか?それとも宿命論的に、「自分も何かいろいろ問題はあるけど、彼らよりは恵まれた状況にいるな。それにしても、これじゃテロとか起きてもしょうがないや。」と、言ってみることだろうか?そうではないだろう。どれをとっても右翼の視点であって、何ら核心に触れるものではない。何が問題であるか、自分で考えてもわからないなら、とりあえず相手が何を望んでいるのかを、聞いてみれば済むことではないだろうか?別に同情してくれなど、訴えていないではないか。ただ普通の生活---仕事して、結婚して、子供産んで、蛇口ひねればいつでも水が出てくる家に住みたいと言っているだけである。人間を爆弾へと変質させてしまうような、異常な現実があるということが問題で、しかもこれはアルジェリアだけに見られるのではないということである。事態が悪化した場合にメディア化され、多くの人が知るところになるだけである。この場合は、アルジェリア政府、あるいは歴史的特異な関係にあるフランス政府に直接関わる問題だろうが、利権を求めてこの土地へとやってくる国・企業は、日本も含め多く存在するのである。したがって、まったく関係ない問題でもなければ、利害関係を抜きにしても、関係なくはないのである。イラク戦争が勃発したときにあったフランスのギャグ。アメリカのある田舎でのこと。マックとコーラとテレビゲームのせいで歩くことすらできなくなった肥満児を、学校にマイカーで送り向いするママの話。ガソリンが必要だ、イラクへ行けとか言って笑ってられるのは、恵まれた国にたまたま住んでいる者だけである。
テロに関して言えることは、それが何か発生するものという前提に立つことで、自国のセキュリティーだけを強化すればよいという問題ではなく、やはり発生してもおかしくないような状況を改善することに目を向ける必要があるだろう。別のコンテクストでバディウがTV対談でも言っていることだが、セキュリティーがどうこう言って大騒ぎしている自分たちよりも、テロが実際に起こっているところで生活している人々のほうが、よほど危険な状況に、セキュリティーなどまったくない空間に置かれているというのが現実なのである。また、そういった状況を改善することは、別にテロ組織を撲滅すれば済むという問題でもないだろう。それというのも、類似する状況があるかぎり、ある組織を壊滅させても、また別の組織が現れることも考えられるからである。
*   *   *
ルポルタージュのなかで、ある若者とジャーナリストのあいだで、次のようなやりとりがあった。「あんたフランス人か?もしよかったら、俺を連れて行ってくれないか。」-「なんで、フランスなの?」-「どこにしても、ここよりはましだと思うからさ。」---
短いやりとりだが、多くのことがここに要約されている。始めて会った見ず知らずの人に向って「一緒に連れて行って」など、事情がわからないうちは、冗談としか理解されない。だが、言っている本人にとっては、かなりシリアスなことである。テロについて述べたこと。起こらないように状況を改善することは、ある意味、移民の問題とも関係してくる。本質的に右翼的な政府・国家は、国益という名において、必要な時には移民を奨励する政策をとるにせよ、社会システムがうまく機能しなくなった途端に、選別、制限、退去など勝手なことを言うのである。世論はもっと無責任で、失業や治安の問題を、移民の問題へとスライドさせることをあからさまに言ってみたりする。これはこれで問題だが、ここでは副次的なことである。ただひとつだけ言っておくことがある。それは、自国のパスポートを所持する者が、移民に対して持つ至上最大の誤解についてである。それは、移民としてくる人々が、何か好き好んで来ているのではないかという誤解である。なぜ誤解かといえば、大半の移民は遊びに来ているのではなく、仕事をしに来ているからである。そしてなぜ仕事をしに来なくてはならないかといえば、テロが起こるような極端な状況でみたように、彼らがいる土地では普通に生活できないからである。また、なぜ普通に生活できない状況なのかという理由は多岐に渡るだろうが、ほとんどの場合は、現実にある戦争あるいは内戦などによる被害、あるいは植民地時代の痕跡によるものだろう。帝国主義の利権をめぐる闘争に巻き込まれているのである。何もないところには、何も起こらないのである。
少し考えてみるとわかることだが、誰でも生まれ育った土地には愛着を持つことは自然な傾向であるし、その土地の水のほうが身体にあっているのである。そういった土地を後にしなくて済むのであれば、わざわざ見知らぬ国へ来る必要などないのである。このことは、炎天下のなかでインフラの整備をしている人間や、厨房の片隅で皿洗いをしている人間などの名誉にかけて言うのだが、それを何だ、帰れとか。おかしいではないか。自分たちの年金だって、彼らが国家に納めている税金で賄っていることをご存知だろうか。問題は何だ?自分たちとは異質の習慣を持っている人々に来て欲しくなかったら、彼らが来なくても済むように、彼らがいるところの状況を改善してあげればいい話でないか。それには、学校や病院を建てる資金援助などは当然のことだが、もっと技術や知識をタダで教えてあげたりすることが大事なことだと思うのである。

月曜日・・・差異と反復
蛇足だが、先日騒がれていた、(毒入り)ギョーザについて一言。このニュースを聞いた時に真っ先に思ったのが、「みんなもっと世界で起こっていることに興味を持とうぜ」、ということだった。政治とかには関心がなくても、せめて自分が日常的に使用している製品や、飲み食いしているものぐらいは興味を示してもよいと思う。例えば次のようなことで、どこから来るのか、どのように生産されているのかに始まって、そこで人はどういった条件で働いているのかなどである。ギョーザでも何でもいいが、それはスーパーで買うものであって、作るものでないと思っているなら、どこか何かが狂っている。子供だったら、それはそのままの形で、植物のように大地から生えてくると想像するかもしれない。だが、もしそれは買うものだと思っている人が、果たしてそういう子供たちをバカにできるか、ということが問題である。直接的に知覚できる範囲で物事を捉えているのは、買うものと思う大人のほうで、ある意味で子供以下の知性ということになる。それというのも子供のほうがこの場合、少なくとも想像力を働かせており、言っていることが間違っていようが、知覚によって形成される現在から超出しているという意味で、大人よりも遠くのことを思考しているからである。試しに今度、最近流行っているらしいギョーザ作り器には頼らずに、自分の手で作ってみたらどうだろうか。皮ぐらいは買ってもよいが、ギョーザだねは自分でやってみた方がよい。ネットでレシピは各種出てくるので、本を買う必要はない。一度やってみるとわかるが、単純なことだが結構面倒なことに気づかされる。それと同時に、以前紹介したTV対談でバディウが言っているコミュニズム的仮説のある側面---各自がポリバランスでいるような世界という意味が、少しは理解できるかと思う。バディウがそこで言わんとしていること。何もできることはすべて自分でやれとか、かつてフランスにいたマオのように郊外の農園で自給自足の生活しろとか、いささか冗談ぽいことを想起してしまうが、そんなことは言ってないだろう。とりあえず、身近にあって自分と直接に関係をもつ物などを通してでもよいから、世界で起こっていることに興味を持とうということである。考えてみると当たり前のことなのだが、自分が日々使用する物が、自分の手によって作られたのでないならば、他者の労働力に依存しているということである。すると上で列挙したようないくつかの問いを発することになるわけだが、さらにここから一歩押し進めることで、見えなかった世界が見えるようになってくるということである。自分で作るには時間も労力の要る。それにしてもなぜこれは、これほどまで安いんだろうか?どこで?誰が?etc・・・
行き着く先は同じである。一挙にそれがあるところへと身を置くような、異常なものとの出会いがなくとも、身近な世界に対して発せられるひとつの素朴な問いからも、世界が拡張されていくことに気づかされるのである。例えば、先程の子供のような視点で世界と触れることも可能である。子供になることと、ドゥルーズは言うだろうか。兎に角、知覚されるものを通して、その背後に広がる世界に関心をもつということである。関心を持つこと。これは、関心を持たないことについて考えてみることで、うまく説明できる。関心を持たないこと。これは興味を示さないこと、無関心なことであるが、フランス語だとアンディフェラン・indifférentということである。つまり、差異なき状態ということだが、もちろんそれは、外部世界というよりは、むしろ自分たちの内的世界のことである。換言すると、知覚されるものとか、受容されるものによって、内的変化が生じない状態であり、自己との差異化がない状態ということである。この状態を一言でいうなら、右翼ということ。右翼とか呼ぶのは勘弁してくれということなら、生理学的にはインポテンツとか勃起障害、医学的には全身麻痺とか麻酔にかかって無感覚になった状態とでも言える。バディウだったら、ねずみと言うかな。関心を持つこととは、したがって、出会いのなかで自己との差異化にいたるということである。こういうことを、(毒入り)ギョーザの一件で感じたことなのだが、それがなんだ。マスコミにしろ、中国人が毒を盛ったとか、テロだとか、ちょっとどころか、だいぶ頭がおかしいのではないか。こういうことを言う連中は、実際に毒にあたって死ぬ前に、すでに別の毒に侵されて精神的に死んでいるのと同じだろう。中国人がどうこう言う前に、自分の頭の解毒治癒とリハビリから始めるのが順序ではないのか。
限がないので最後に一言。今日において食糧品に関する問題が深刻化していることは、周知のことである。これは別に、日本にとっての中国からの輸入品に限ることではない。イギリスに始まってアメリカの狂牛病や、アジア諸国の鳥インフルエンザなど、例を挙げれば限がない。こういった農作物に対する衛生・安全の問題に加えて、もうひとつは需要供給バランス問題からコスト問題がある。後者については最近いろいろ話題になっているが、温暖化による生産性の低下と中国・インドの人口大国による全般的な消費量増加などが原因とされている。資本主義の論理からみると、当然のことながら、生産性と購買力を推進するという方向性へと突き進むことになるが、自然が見方してくれなければ限界ということだってあるだろう。また、企業にしても国家にしても、とりあえず現状維持を求めるのであれば、とりあえずその皺寄せは、各セクターでの弱者に集中するだうし、それでも上手くいかないならば、管理する立場にいるものが適当に帳尻をあわせようとすることもあるだろう。何か適当なことを言っていると思われるかもしれないが、日本でも老舗による賞味期限改竄や産地偽装などで、すでに立証済みである。例のギョーザの一件にしても、何かこういった市場重視の資本主義システムの悪しき部分が表面化しただけのように思う。事情はよく知らないが、似たような問題から想像すると、コストパフォーマンスに対するオブセッションから、親会社の管理不足、労働者への不当な扱い、第一次産物の生産過程から農薬の濫用などの累積だろう。社会的には親会社が責任をとればよいが、狂ったかたちでしか作動しないシステムの問題なので、まさにそのなかにいる人々全体に向けられている課題である。
こういった食糧に対する不信から、最近では有機栽培とかBIOなどの生産物が流行っている。実はこのBIO運動には、一般には気づかれていない闘いがある。BIOのものを生産・消費するのも、それがただ健康や環境によいというような、気取った理由からだけでない。確かにこういった側面はあるが、もっと深いところでは、市場重視の資本主義あるいはそれに基づくグローバル化に抗する政治的な運動という側面がある。具体的に言うと、エコシステムを尊重する小生産者への連帯や、地方特産物の保護などであり、要はファーストフードや世界のマクドナルド化に対する挑戦なのである。

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何かいろいろ書きなぐった感がありますが、言いたいことは、グローバル化の問題はもはや国家・国民レベルの問題ではないということだけです。それが今、左翼に求められていることであって、この辺りが理解されないと、フランス発のニュースとか、現代思想など読んでも何を言っているのか理解不能と感じるわけです。日本でいわゆる左翼と言われている活動家、知識人のことなど、自分でもよくわからないことが多くあります。例えば、死刑制度が未だに存続している日本で、フーコーがどのように読まれているかなどです。前エントリーに書いたのも含め、ここは違うとか、日本はこうだとか、誰か教えてくれると助かるのですが。隠しモードでも構いませんので、コメントして頂くと有りがたく思います

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スレッド:国際問題 / ジャンル:政治・経済

2008.04.27[Sun] Post 15:57  CO:1  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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