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「それでも住みたいフランス」

以前から、いつかここで紹介したいなと思っていた本。 それでも住みたいフランス(2007/01/24)飛幡 祐規商品詳細を見る 今、手元にないのですが、... .....続きを読む
2008.05.02[Fri]  発信元:L\'ECUME DES JOURS ~日々の泡~  

左翼の日記(前編)

月曜日・・・左翼と右翼
日教組とプリンスホテルの一件に始まって、ネグリ入国禁止令や映画「靖国」に至るまで、ここ数ヶ月のうちに日本から発信されるニュースは、本当に呆れてしまうものが多い。何もせずにただ傍観していても、敵を喜ばせるだけなので、これらのニュースについて考えることを、自分の頭を整理する意味も含め、少しメモをとっておこうかと思う。すでに言及されていることと思われるが、土壇場になって真正右翼らの力に屈するという点で、これらのニュースには共通することが多く見られる。ある意味、右翼的傾向が勝利をおさめてしまう現実は、人間的自然の摂理なのかもしれないなどと、ひとつ前のエントリーで紹介したドゥルーズの対談映像を見ながら、切に思う今日この頃である。それというのも、宛名の例を引きながらドゥルーズが説明するように、自己から始める知覚の仕方はごく自然な傾向であるし、またそのことで思考あるいは行動というものが規定されるのだとすれば、人間が右翼でいることは自然的な態度であると思われるからである。してみれば、人間が形成する諸々の状況が右翼化していくのも自然の成り行きであることと、また、それを放っておくことにでさらに右翼化が進行することは、容易に想像できることである。ただそのことで、何ら不都合なことが起こらないならば、人間社会が右翼化していくこと自体、取り立てて問題にする必要はないであろう。しかしながら、歴史が教えてくれるように、例えば戦争などが起こる背景には、必ずと言ってよいほど、自らを中心として世界そのものを右翼化していくような過度な傾向を見出すことができるのである。ドゥルーズが右翼について積極的に定義しているテクストがあるのかは知らない。しかしながら、以上のようなことは、対談のなかで「左翼ではないこと」について述べている部分からも、引き出すことができる帰結である。
最近、左翼あるいは右翼について、ネット上で議論されているのをよく見かける。面白いものもあるが、一般に認められている主義主張や、歴史的な運動あるいは過激な団体へと、性急に結びつけることで満足しているものが大半である。例えば、あるひとがマルクス主義に傾倒しているとして、そのことで彼が左翼というような場合である。もしマルクス主義と左翼を結びつけたいのなら、逆が真であって、人は左翼であるからマルクス主義に共感することもあり得るということである。同様にして、左翼を急進主義者やコミュニストと、右翼を保守主義者あるいはナショナリストなどと言うことがあるが、このように表現される政治的立場、またはそこから発せられる主義主張は、ドゥルーズによると、相異する知覚の仕方から導きだされるひとつの帰結でしかないことである。左翼と右翼のあいだでなされる議論で通俗化しているものは、それぞれの立場から引き出される結果だけを対立させ、互い中傷し合っているようなものである。自然的な在り方とは異なるものを創造することに左翼の使命があるならば、始めから右翼と同じ土俵に立つべきでなく、敵を寄せつけないような場を開拓すること専念することが必要となる。そして、そこにおける異質な生の在り方を提示し肯定することで、否定的なものに囚われている敵を悲しませてやればいいのである。このことは、先の仏大統領選でも明暗を分けた大きな点であると思われる。左翼に求められていることは、本来ならば、肯定すべき事柄を前面に打ち出することであって、敵の批判などには序でに携わればいいのだが、形勢が不利になるや否や、自らの使命を忘れ、反動的な敵に対して反動によることでしか応戦できなかったことが、そもそも負けた原因なのである。いずれにしても、政党政治のことは、ここでは問題ではない。
ある人が左翼なのか右翼なのかは、まず知覚上の問題であることを、対談のなかでドゥルーズは絶えず強調している。宛名の例が一番わかりやすいが、左翼とは世界の果てから始めて自己へと向う方向をとるならば、右翼とは反対に自己から始めて徐々に遠くへと赴くような知覚の仕方で規定されると言っている。ひとつの極からもうひとつの極へと、知覚が向う方向性が相反することから、一見すると、これら二つの知覚の仕方は、何か対立するものとして理解されるかもしれない。しかし、そこから単純に左翼の反対が右翼であると言えるのだろうか?互いの主張が対立あるいは矛盾することがあるにせよ、そのことは単なる結果として皮相的に現れることでしかないのである。思考する対象が何であれ、そこに対立や矛盾をすぐに見出そうとするならば、いつでも重要なことがらを取り逃すことになるということは、これまたドゥルーズが批判して止まない点でもある。事実、ここにおいて対立として現れるものはたんに見かけのことでしかなく、二つの知覚に基づく、相異する世界の接し方が問題なのである。知覚の「仕方」ということでドゥルーズが言いたいことは、知覚されるものへ向う傾向性が問題であり、見えるようになる外的な差異などは、そういった内的差異の産物でしかないということである。したがって、知覚されるものをどのように受けとめ、いかにそれを思考するのかというような、異質な態度を明らかにすることが重要となる。
してみれば、異質なものについて、それが対立するとか矛盾すると主張するのは、誰かということが問題になる。これに対する答ることは、ドゥルーズの哲学全般に関わることであり、彼の著作のなかで至るところで見出すことができる。ごく簡単に言うなら、右翼の観点からということである。それというのも、右翼には(左翼も含めた)異質なものに対する先験的否認の傾向をもっているからである。異質なものに出会っても、すっかり出来上がっている自らの視点に固執することしかできないので、それ自らに対立するもの、矛盾するものとして受けとってしまうのである。これは、右翼のもつ自閉症的な傾向であり、実にかわいそうな点でもある。自分以外のものを否定することで、自らのアイデンティティを形成するような右翼は、まずもって左翼あるいは左翼になる契機として考えられる異質なものとの出会いのなかで、自己との差異化ができないような老いぼれである。したがって、不名誉なことであるが、右翼がインポとか老婆とか形容されても無理はないのである。ほとんど瀕死状態の右翼ではあるが、問題はこの状態こそが人間にとっての、自然的な在り方を規定しているということである。

火曜日・・・飛躍
人間とはその自然状態では右翼である。このことは、どの時代に生を授かろうが、またどの土地で生を営もうかには関係ないことである。ドゥルーズが言うように、誰でも近所のゴタゴタの方が、隣国あるいはさらに遠い土地で起こっている問題よりも重要であると感じるような、日常的・素朴な態度から説明できるだろう。とはいえ、通信技術が発達した現代において、余程ネットやテレビもないところで自給自足の生活をしているのでないかぎり、程度の差はあるにせよ、世界で何が起こっているかぐらいは、知らないはずがないだろうと、ドゥルーズは言う。対談のなかで挙げられている例は、収録当時のアルメニア人虐殺や、現在でも深刻な第三世界での貧困問題なのである。現在ならば、チベット自治区でのこと、あるいはイラクやアフガニスタンでの戦争、ガザやダルフールでの紛争など、数を挙げると限がない。そこで何が起こっているのかを、たとえ詳しく知らなくとも、各メディアを通じて配信される映像は、まったく非日常的で異常な光景として知覚される。幸運にも恵まれた土地で生活する者にとっては、まったく別世界で起こっているような印象を受ける。この段階では、いまだに知識や道徳などが問題ではない。「どこ」とか「なぜ」などと問いかける以前に、異常なものは異常なものとして知覚さえるということである。その時ひとは、こういった異常事態が発生してる場へと、一挙に身を置くことをしている。ドゥルーズが言う、左翼になる契機が与えられるということである。しかしながら、このように一瞬起こる知覚上の変革が、つねに純粋な状態で維持されるとはかぎらない。つまり、左翼になることに失敗し、これまで通り右翼のままにとどまることは可能である。右翼とは左翼の成り損ないとも言えるだろう。始めはどこで起こっているのかを報せられないままに知覚されるものが、身近でのことでないと理解することで、まったく関心がなくなることもある。また、関心を持ち続けるにしても、始めに受けたときとはまったく同じ仕方でないこともある。人は簡単に自己を中心とする知覚の地点へと、立ち戻ることができるというわけである。これも、ある意味で自然的な傾向であろう。
したがって問題は、もはや知覚に関することだけではなさそうだ。知覚上の一瞬の変様は、ただ左翼になることの契機であり、ただそれだけでドゥルーズが言うところの革命家へとなるわけでない。重要なことは、知覚的に被ったある種の暴力を、他の諸能力へと上手く連動させてやることであり、知覚上の革命を想像力、記憶力、思考などでも成功させることである。当然のことながら、これらの審級でも自己から始めるのではなく、当の知覚されるものがある場、問題が生起している場にとどまることが必要となる。「なんだって、知覚されるものがあるとこに赴けだって。そういうお前こそ、なぜ問題がある場に行かないのだ。」よく聞かれるバカげた批判である。今なら、チベットのことを話すのはいいが、なぜチベットに行って実際に行動しないのか、というようなことが言いたいのだろうが、ナンセンスな批判である。別に何も現地に行くとか行かないとかが問題ではない。さもなければ、人は近所のゴタゴタについてしか、思考するも語ることもできなということになってしまうだろう。「遠く」や「世界の果て」あるいはそこへ一挙に身を置くことなどの表現でドゥルーズが意図していることは、ただ何事も自己から始めるのでは上手くいかないこと、もっと正確に言うならば、社会的・経験的に形成される自己が置かれている立場から思考したり問題を提起するのは、右翼であり左翼でないといぐらいのことである。しかしながら、なぜ右翼的態度が批判されるのだろうか。理由はいたって単純である。人は自己から始めることで、いつでも自分が帰属する社会や国家などを考慮に入れてみたり、あるいは自己にまとわりつき守るべきとみなされる、経験的な諸々の利害関係のなかに捕らえられてしまうからである。それによって、知覚されたものとのダイレクトな関係を失うばかりではない。それとの純粋な関係を維持できないばかりか、まったく別のものへと変質することすら平気でやらかしてしまうからである。知覚される異常なものに対する関心が、なぜ現実に自分が置かれている立場からでてくるような諸関心と天秤にかけられる必要があるのだろうか。こんなことは、社会的に形成される疚しい良心がもつ葛藤というもので、妥協の政治でしかない。
このように、個人レベルで述べられることを、国家レベルに置き換えてみることはできるだろう。対談のなかでドゥルーズが、なぜ左翼政権などは存在しないと言っているのかを理解することができる。政府というものは本質的にその目的からして、国家や国民を統治する観点に立つことになる。そこから世界で起こっている異常な事態について関与することになるが、例外なしに自国を中心に据え置くことをするわけである。したがって、本質的に政府は右翼でしかないということだ。例えば、国益などを考慮に入れるならば、どうしても他国で起こることなどが直接的には関係ないと判断されることで、知覚されるままにそれに関与することなど、始めから不可能であると言っているわけである。ただドゥルーズが言うように、市民の左翼的要求に好意的な政府を望むことは可能である。これを政治のカラーで喩えるならば、自国のことばかり優先する極右から保守へ、中道右派から中道左派あるいは左派へと、民意によってスライドさせることは可能ということである。しかしながら、問題があるところへ一挙に身を置くことが要求されているところで、いかに知覚を拡張し、思考・行動の範囲を広げても、自己を始点にするかぎりで、本質的には右翼であることにはかわらないということである。おそらくこれは、対談のなかで寛容性について、ドゥルーズが何か言おうとして言えなかった(パルネが遮ったせいで)ことだと思う。
国家の話題が出たついでに、ここでひとつ付加しておくことがある。それは、「遠く」という表現についてだが、対談のなかだけだと、ただ空間的な意味でしか理解されないような気がする。しかしながら当然、時間的な意味をそこに含ませることは可能であろう。つまり、「いまここ」の即時的な利害関係に囚われるのではなく、もっと遠い将来のことをも考慮に入れるということである。そして最も重要なことは、例えばバディウが最近メディアを通じて繰り返し言っているように、将来の展望について思考するためには、まず過去の出来事に忠実であるべきだということである。すなわちこれは、歴史の問題であり、純粋に左翼の闘争でもある。

水曜日・・・コミュニズム的仮説
質の悪いニュースについて新聞などを読むよりも、それについて言及している日本発のブログを読むほうが断然面白い。ただ右寄りの論調で煽り立てているのに頻繁にあたると、さすがに落ち込むこともある。明日にでも宣戦布告のお触れが出たら、特攻隊に志願するような勢いのあるブログについては、取り立てて何も言うことはない。ただプロが公然とやっているものに対しては、そのうち纏まったものを出版して批判してやる計画はある。どこに行っても自国旗を掲げながら、隣国を中傷して喜んでいる連中はいる。フランスでも同じだ。最近流行りの言論の自由とか表現の自由とか言うのも勝手だが、そもそも連中が自由とか言っているものも、元はといえば、左翼的運動によって歴史的に獲得したものだろう。いずれにせよ、その他大勢が言うようなことを、ほとんど同じトーンで発言することに、一体どれだけ価値があるのだろうか。世間で通用している、しみったれた事をコミュニケーションするために、言論とか表現の自由などはない。自由という言葉を聞くことで無反省に大喜びするのは、恵まれた国にいる右翼の特徴である。困ったことだ。それよりも、連中を黙らせるようなディスクールを、左翼は考案する必要があるだろう。その場合にひとつ重要だと思うことは、右翼が使用する言葉を使って思考するのは止めたほうがいいということである。
多くの点で共感することはあるものの、左寄りの論調で書かれたものを読んで、たまに受ける違和感というものがある。それが一体どこから来るのかと考えてみた。ひとつは、右翼とは別の仕方であるが、「国益」という言葉で物事を考えすぎているような印象を受けるという点である。上にも書いたが、「国益」などを問題にする時点で、左翼的と呼ばれる思想も、忽ちのうちに自家撞着に陥ると思われるのだが、どうなんだろう。ネグリ入国禁止や、映画「靖国」に関するブログでも、当局の不当な権力行使というものが長い目でみると「国益に反する」とか「国益を損なう」とか言うことで批判しているものをみるが、そもそも国益などは、ここでは問題ではないように思われる。言いたいことはおそらく、国家云々よりも国民の利益ということなのだろうが、それにしても結局は同じことである。最近つくづく思うことだが、今日のように市場原理に基づくグローバル化が加速するなかで、それによって引き起こされる世界的諸問題を思考するのに、「国家」とか「国民」などの言葉では、もはや不可能であるということである。国家あるいは政府を批判するにせよ、別に国家や政府のためを思ってやっているのではない。親が子供を叱るときに、「あなたのためを思って言うのだけど」とは、まったく事情が異なるのである。つまらない批判を前もって排除すると、こう言ってみることで、ある任意の国が好きだとか嫌いだとかを問題にしているのではないということである。ただ、国家などは何か達成されるべき至上の目的ではなく、むしろ最終的に乗り越えるべきものであるということである。バディウの言うところの、コミュニズム的仮説というやつだ。この点について興味ある方は、過去記事検索してください。

木曜日・・・無名のネグリ
ネグリ入国禁止のニュースは、フランスではほとんど話題にならなかった。姜尚中氏の言葉を借りれば、この事件に関してネグリは、フランスにおいては「無名のネグリ」ということだ。おそらく一番早く報道してたのは、日本のニュースを扱うサイトによるものだったと思う。日本からの一報と同じで、ネグリが渡航をキャンセルした経緯の簡単な報告と、7月のサミットに向けて政府がアルテルモンディアリストらの入国に神経を尖らしているという程度のものだった(3/24)。許可するか否かを最初からはっきりしておけばいいものの、ドタキャンして恥を晒してまで、政府が守らなければならない利益は何なのか。誰にとっての利益なのか。どうでもよいが、国民とか言うのだけは勘弁してくれ。
今回のネグリの件について、イベントの主催者の一人でもあった姜尚中氏が、Youtubeに投稿された映像のなかで、次のようなコメントをしているのを見た。今回のことが多くの人々の関心に触れることになったのも、ひとえにネグリが著名人であったからとのこと。確かにそうである。著名人だから騒ぎになったということ。裏返して言うと、万事が予定通りに進んでいたら、そこでは何も起こらなかったということである。「無名のネグリ」たちは、これまで通り無名のままであったということだ。メディアに取り上げられないような社会運動も著名人が関与し、それについて積極的に発言することで、始めて広く一般に伝達されるようなケースは少なくはない。フランスでは知識人のみならず俳優などが、ひとりの市民として積極的に社会問題に関与することでメディア化することに成功し、政府に圧力をかけるようなことはよく見られる。問題が解決するかどうかは、ここでは重要ではない。社会のなかでまるで存在しないかのように扱われている人々が、現に存在するということをひとつの事実として、問題提起することがまず重要なのである。仏著名人がアンガージュするものに、ホームレスや移民の問題が多いのもおそらく偶然ではないと思われる。それというのも、右翼的な政府が強いる社会のなかで、まっさきに排除され、もっとも無視されやすい存在であるからだ。ランシエールなら、声を奪われた存在者と言うだろう。そもそも、無名のネグリとは誰のことか。短い映像からは判らないが、もしネグリのように何らかの国家理由で入国を拒否される者というだけなら、せっかくの言葉も効力を最大限に発揮できないままに、そのうち消えてしまうだろう。それはまず帝国によって虐げられる人々。さらには帝国に抗して闘う人々。世界の至るところで加速する帝国主義に対して闘う無名の革命家らすべてについて、適用できる言葉だと思う。そして、帝国に対する様々な運動に新たな共同体の価値を見出し、それらを連動させるような理論がマルチチュードではないのか?これは、左翼の問題である。
例えば、日本においてまず思い浮かぶのが、根津さんや河原井さんらの「君が代不起立」である。マスコミはもとより、日教組側も消極的であったために、一連の運動ならびに、それに対して石原政権下の都が下した活動家に対する制裁の数々は、ごく僅かの連帯者を除いて長い間黙殺し続けられていた。全国各地で不起立が増えてきたこと。また今回の裁判で最悪の場合、根津さんが懲戒解職になること。ようやく一部のマスコミで取り上げられることになったが、それでも最初は「読者の声」という枠で、間接的に記載することにとどめていた。(プリンスホテルの一件とマスコミの反応の格差には呆れてしまう。両者ともに有名だから話題性があることだし、新聞も売れるというわけだ。)これまでの記録の詳細に興味がある方は、有志らによるHPVideo Press社が制作したドキュメンタリーを見ることをお勧めします。尚、現在でも署名は受けつけているようです。空間的には身近にあるが時間的には遠くなりつつあるこの問題。チベットもオリンピックもよいが、個人的には重要だと思うのだが。。。(続く)
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2008.04.24[Thu] Post 17:13  CO:0  TB:1  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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