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ジャック・ランシエール - 仏大統領選の雑感 ~ セゴレーヌ・ロワイヤルの参加型デモクラシー

一昨日、セゴレーヌ・ロワイヤルとフランソワ・バイルによる、第五共和制では異例のTV直接討論が、サルコジ陣営の圧力にも関わらず最終的に行われた。異例とはいえ、これまでも一次選後に敗者と勝者との間で、二次選前にTV討論が禁止されていたわけではない。ただ、74年の大統領選以来、二次選に駒を進めた二人の候補者による直接TV討論のみが、慣習的に行われていただけのことである。2002年は、シラクがルペンとの討論を拒否したので行われなかった。それは、反デモクラシー、反共和国主義者とは、話すことがないという、シラクの言い分からであるが、世論もこれには賛同していた。

問題の討論は、制度・経済・ヨーロッパ・社会生活をテーマに進められた。経済に関するテーマでは、妥協する点がほとんどなかったものの、それ以外のテーマでは、同調していたことが多い。なかでも、第五共和制の終焉に関するやり取りは、今回の討論でも重要なテーマであり、サルコマニア以外には(ルペンも含めて)興味深い内容であったと思われる。具体的なものは、大統領に多くの権限を集中させるような現行の君主政体の改革、議員の要職掛持ち禁止、国民議会選挙への一部比例代表制の導入、議会多数派政党の権力分散などで、要はデモクラシーという名において進められている、もっとも強い少数派が有利に働くような現行の権力図を改変するという内容である。これは、政治家による自己批判であり、変革、改革などを国民に要請する当事者も、同様に変わるべきであるということである。
結局、今回の討論が実現するまでの経緯を見てもわかるように、問題の焦点は、第五共和制の悪しき面の改革であり、これが意味するのは、自らに有利に機能する現体制を力づくで保持し強化しようとするサルコジ陣営に向けられた批判なのである。TV討論の前に、スタジオに招かれた各党の責任者がコメントをしていたが、終始、今回の討論が「第五共和制の精神に反する」と言っていたあるUMP議員が司会者の質問に対し、「デモクラシー?それは、多数派を意味するのじゃないの?」などと口を滑らす場面は非常に象徴的であった。
また、ロワイヤルやバイルに対して、第一次選挙期間では、お互いに非難し合っていたのに、今になって歩み寄るのは、支持者たちをバカにしているなどという、批判がUMP側からなされている。それに対しては、ロワイヤル以上にサルコジに痛烈な非難を浴びせていたドゥ・ヴィリエや、議会での席を確保するために急遽サルコジ支持に逃れるUDF党員などにも、UMPは同じように批判する必要があるだろう。
さて、残り一週間。政策に関する細かな討論も必要だが、デモクラシーという理念を、政治的な面から焦点を合わせ、サルコジとの差を明確にするなら、ロワイヤル支持が増えるような気がするのだが。反対に、デモクラシーという理念を、雇用に関する個人の自由やライフスタイルなど経済的な方向へと持っていかれたら、ロワイヤルが不利のような気もするが、どうなのか。昨日、フランス・ヨーロッパ・エクスプレス・FEEという政治番組に出演していた、トマ・ピケティー級の話が出来たらよいのだが。とりあえず、TV討論を見ることにしよう。

(先日サルコジはTF1での特番で、経済の話をしている最中、靴を脱いだり履いたりと、落ち着きがないというか、育ちのあまりよくない現場をカメラに撮られ、全国中継されてしまった。あまり気づいた人はいないと思うが、CANAL+で翌日、ギャクにされていた。TF1では友達の家に招かれているようなもので、つい、くつろいだ態度を見せてしまったのことだ。人のことは言えないが、こういう行為は、無意識なものだと思われるので、本人が注意してても、大事な場面でまたやりかねないだろう。)

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セゴレーヌ・ロワイヤルが、今回の大統領選にさいして、もっとも初期のころから、前面に打ち出そうとしていた理念のひとつに、参加型デモクラシーというものがある。これは、議会代表制ではデモクラシーの理念を十分には実現することができないという反省から生じてきた考えである。すでに大昔からある考えであるが、少人数で構成される集団内でならまだしも、国家規模で行われる選挙などでは、適用することなど到底できない単なる理想としてしかみなされていなかった。また、今日のような官僚主義的な世の中にあって、参加型デモクラシーには、多少ナイーヴなものとしての印象もある。しかしながら、現実社会に上手く適用できないというテクニック的な理由で、ひとつの理念について考えること、討議することが無用であることにはならないだろう。そもそも自由なり平等なり理念というものは、思考すべき対象であって、様々な角度から検討されるべき解なき問題であり、経験の場で実現されるか否かによって測ることのできない問題なのである。

公式選挙運動に先立ち、ロワイヤルが公判した書「MAINTENANT」が、市民との対話を通じて徐々に書き進められたものであることは、よく知られていることである。以前、ロワイヤルの公式サイトで、この書の草稿が少しずつアップされていたので読むことができた。本稿は読んでいないので、最終的にどういった内容に仕上がっているのかは知らないが、草稿の導入部では、デモクラシーについての考えがまとめられていた。すぐ目についたのは、ランシエールの「デモクラシーの憎悪」からの引用文であった。
ランシエールによるデモクラシーの理念。『この言葉に、本来持っているスキャンダルの力を返さなければならない。デモクラシーという言葉は、当初、ひとつの侮辱の言動であった。それは、下層民、大衆、統治することの資格を備えていない者らによる統治であった。』平等とは、目的ではなく、『誰もが備えている力』というデモクラシーの前提であり、『より多くの人間が、公共の事柄に携わる資格を持っている』ことの肯定である。(『』は、ランシエールの「デモクラシーの憎悪」からのロワイヤルの引用)

ランシエールが、ロワイヤルの選挙運動に直接的に関与しているとは思われないし、おそらくしていないと思う。それでも、こういったかたちで自分の思想が取上げられ、重要なものとして評価されていることには、本人も悪い気はしていないだろう。それはランシエール自身が今回のリベ記事でも言っているように、ロワイヤルが最後まで徹底的に展開されなかったにしてもである。しかし、ロワイヤルの発言のなかに、敢えてランシエールの影響を探すなら、いまだ見出すことができるのではないだろうか?
例えば、エネルギー問題についての最近の質問に対して、ロワイヤルは次のように述べている。「原子力発電のような問題は、国民全体の生活に関わる重要な問題であるので、一部の政治家や一部の専門家だけで討議され解決するような問題ではない。自分たちがどういた状況に置かれているのかということを、多くの市民が意識するできるように、政府は正確な情報をもっと公開すべきである。(原子力発電がいいとかわるいとかいうことに単純化する質問に対して)[…]天然ウランの可採年数は?代替エネルギーは?ウラン廃棄物の処理?再利用は?」
公共に関する諸問題を、これまでのように統治することが自然に許されているような、一部の特権階級の者らだけに任せておくべきなのか?取り決めを行う当人らの利益が約束されているような閉ざされた空間での密約に、異議を唱えることなしに従うことが善良な市民なのか?政治的なものが、政治家や専門家だけのものではなく、すべての者に開かれたものであり、そこへ介入していく能力をすべての者が備えているということが、ランシエールからインスピレーションを受け、参加型デモクラシーという理念のもとで、ロワイヤル自身が理解しているもののように思われる。

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5/1に、パレ・オムニ・スポーツ(15000人収容)で予定されていたパリでのミーティングは、定員がオーバーすることは確実ということから、最終的にシャルレティ球場で行われることに決定した。天候が今から心配されているが、野外での決行はセゴレーヌ・ロワイヤル本人の強い意向のようだ。セゴマニアではないが、型破りの自由な発想と、自分の意志を押し通す姿には好感がもてる。
火曜日、選挙本部での記者会見で、バイルとの公開討論を提唱したさいに、周りにいた党幹部が記者たちの反応から発言内容の重大さを察したのか、報道陣のヘッドフォンを奪い、ロワイヤル節を真剣に聞いていたのは、象徴的なシーンであるように思う。側近らにとっては、本当にハラハラさせるパトロンなのだろう。
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Entretiens. Jacques Rancière, philosophe, défend une plus grande participation des citoyens aux processus de décision : «On est revenu à une campagne traditionnelle» Par Eric AESCHIMANN QUOTIDIEN : samedi 21 avril 2007 Jacques Rancière est philosophe. Il a publié, en janvier, Politique de la littérature, aux éditions Galilée.

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今回の選挙戦について一言お願いします。

代表制政治がもつ既存の諸形式と、公共生活の場への参加というデモクラシー的要求とのあいだにある、ひとつの重大な隔たりが明るみになったことは、2002年に人々が確認した通りです。ヨーロッパ憲法の否認、郊外蜂起、反CPE闘争は、こういった一般的診断を裏付けたことと同時に、万人が参加するものとしてのデモクラシーに関して、再考する糧を与えました。今回の選挙が開始した時点では、こういう隔たりが考慮されることに、人々は期待していました。しかし徐々に、伝統的な選挙戦へと舞い戻り、昔からよく知られているカテゴリーが復活してしまったのです。そういったカテゴリーは、有効票、専門家らの手による諸々のプランを調停する数人の候補者らの企て、人民との似非カリスマ関係の要請というようなものです。

こういった状態への回帰は、避けられないものだったのでしょうか?

この問題を再検討する枠組みとして、大統領選は最適なものではありません。それというのも大統領選は、たった一人の個人の選択に国の政治的生のすべてが依存している代表制システムの突端であり、そこでは、経済・官僚的な寡頭体制によって規定された、可能であるとされる事柄の駆け引きに、多数派の同意を獲得することが問題になっているからです。フランスは、二足の草鞋を穿いているような一つの政治システムのうちで、生き続いているのです。デモクラシー理論を具現化するものと、5年毎の大統領選儀式はみなされており、2回の大統領選の間で、退職・年金・滞在許可証・学校・雇用などの個別的問題が、常に新しいものとして人々の共通する諸能力に召喚するように、拡張されたデモクラシーの諸形式を可能にしています。両者を接合する運動が欠けているのです。

確かにそうですが、選挙戦が諸々の争点を明瞭にしたのではないのでしょうか?

国際経済界とヨーロッパ官僚主義が、ニコラ・サルコジのなかに、市場論理に従属させた社会システムのレール上へとフランスを軌道修正することや、いくつかのフランス的例外の奇怪な側面を破棄することができる適任者と見て取っています。問題は、明確なオルターナティヴというものが、この選択においては存在しないということです。決定するべきものを知る前に、専門家らによる各鑑定書を増大させ照合することを可能にする、決定に関するデモクラシー空間を創設するという、自らが差をつけるべきことをおろそかにし、敵の土俵で相撲をとるならば、どうしたところで左派は成功しません。一連の対抗処置や専門家のはじき出す数字、経済成長の様々な蓋然性に基づいた公約などに縛られているかぎり、左派はけっしてオルターナティヴなデモクラシー勢力を創り上げることはできないでしょう。

当初、セゴレーヌ・ロワイヤルは、このテーマに敏感でした。

そうですね。すべての人間が備えている決定へと参加する能力、あるいは籤引き効果に関しての、わたしが示したような諸理念が、市民討論のなかで現れたこと見て驚きました。その後、すっかりと消え去ってしまいました。おそらくは、議会政治のエリート集団にとって、突如として出現した主体が、いまだ斬新すぎたのが原因であったのでしょう。こういった考えを推進するためには、制度システム外で作動した主導的諸行為を考慮にいれる必要があるでしょう。

ナショナル・アイデンティティー省、窓際の旗は、ポピュリズム的偏向を証言していますか。

ひとりの政治リーダーが国民と直接的な対人関係を確立しているとするなら、ポピュリズムというものです。こういったことは、第五共和制における大統領制度の根底にあるものです。大統領制度を根拠づけることに、民衆・大衆的趣向を当てにすることはやめるべきです。セゴレーヌ・ロワイヤルの国旗に焦点をむけるよりも、現在ところ特権グループにだけに割り当てられている政治決定へと、どのフランスがアクセスすべきなのか、それはどういったフランスであるべきかについて考える必要があります。一般的にクオータという用語で答える傾向にありますが、こういった代表を表現するような諸カテゴリーを評価するよりも、より多くの人間が備えている諸能力の活用という用語で思考するほうがよいでしょう。新しいフランスは、そういった諸能力の許容範囲が拡張されるようなフランスです。移民出身の人口を公然と非難することや、植民地主義を称えることが、こういった新しいフランスの定義を冷遇することは確かなことです。

選挙戦はフランス人に関心を持たせたように思いますが。。。

2002年以降確認されているように、共同決定としての政治にとって、確固としたひとつの関心があります。この関心は、スト・蜂起・棄権票など、様々な形式でもって表現されますが、われわれの諸制度がよその国以上に君主的なものを持ちあわせていることに対する、あるひとつの集団的な役を演じています。だが、現在行われているような一選挙にこの関心が集中するとき、政治を独占している一握りのエリートが最初に利益を得るということを、パラドックスは要求しているのです。

http://www.liberation.fr/actualite/evenement/evenement1/249063.FR.php
© Libération

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2007.04.30[Mon] Post 22:23  CO:0  TB:0  リベラシオン  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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