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左翼の日記(後編)

金曜日・・・生政治あるいはバイオメトリック
かつて多くの哲学者が「国家論」を書いていた時代があった。現代の課題は、国家などは乗り越えられるべきものとはいえ、何もこれらを読まずに済まそうというわけではない。これからも読まれるべきである。とはいえ、今日的なコンテクストのなかで、どのように読むか、つまりどのように活用するかが問題になる。別にひとつの理想国家を考えたり、ましてやそういった国家を実現するための手段を練るためではないだろう。これについては、近代の哲学者らがなぜ国家論などを書く必要があったのか、彼らの意向を汲み取ってみる必要がある。そもそも彼らの国家論というものは、当時権威的であった教会を批判するために書かれ、教会権力によって支配され管理されるのとは、異なる生き方や、現実とは異なる新たな共存システムを考案するためだと思われる。ここでも左翼的なものを発見することが重要となるだろう。言うなれば、かつての教会がそうであったように、しかも当時とは比較にならないほどの技術でもって、生に対する反動的・否定的な管理・権力装置をいたるところに張り巡らす国家を批判するために活用することである。国家があからさまに生政治を企てているような時代に突入している今、もはや国民とか国益とか言いながら、のんきに構えているような暇はないと思われる。近代の国家論などは読む時間がないと言われても困ってしまうのだが、それじゃフーコーのどれか一冊ぐらい読んでもいいのでは?それも時間ないなら、下にリンクをつけたアガンベンの記事でもいいよ。
生政治。9.11以降、世界的とは言っても経済大国だけの内輪話であるが、セキュリティーに関する異常なまでの反応には、いわゆるテロに巻き込まれるかという以上に、なんとも耐え難い時代へとスライドしていく不安や嫌悪感のほうが大きい。アメリカに続いて日本でも、昨年の11.20から入国審査で外国人に対する指紋採取と顔写真の提供というものが施行されてしまった。そんな法案が準備されていることなど、数ヶ月前に日本に研修に行った知り合いから、反対署名メールが来るまで不覚にも知らなかった。昨年の10月のことである。国民の多くは「テロの未然防止に関する行動計画」として、政府の決定を承認していることだろう。国益ということで正当化できるのである。テロは恐いし、外国人に関することだから、何だかよくわからないけどとりあえず由というわけだ。これについて、マスコミの反応がどういうものだったか詳しいことは知らない。でも、一部の市民や団体から反対の声があがらなかったわけではない。それはだいたい次のようなものである。ひとつには、科学者らによるもので、技術面での信頼性に関する批判である。バイオメトリックのリーダーの性能についてであるが、こういう話題は特許絡みとかに帰することが多い。それはそうとして、もし技術的な面だけが問題ならば、例えば現在問題になっている農業における遺伝子組替えについての論争と同様に、技術が進歩することでクリアされることになる。(GMOにしても技術だけの問題ではないだろう。人体への直接的な影響とかより、生態系に関わることなんだけど。だいたい温暖化とかの異常気象についてもそうだけど、ある複雑系で起こることがらを、あらかじめ人間が計算してコントロールすることなどできないように思うのだが。神は死んだはいいけれど、その空席にすかさず座ろうとするのは、老いぼれの右翼だ。)もうひとつは、各人権団体によるもので、外国人渡航者を「潜在的犯罪者」として扱うことなかれという批判である。一見すると、こちらのほうは科学者のそれよりも、入国審査のやり方そのものを問題にしているように思われる。ただ、この批判に続いてなされるものには、まったく説得力がない。それは、こういった排他的なやり方によって外国人観光客が減るのも必至だというものである。これではせっかく人権を擁護しているような批判も台無しになる。他者の立場に一挙に身を置いているかのように思われたものが、今度は反対に自己から始めるような利害関係の視点に戻ってしまっているからである。何か日本の対外的なイメージを危惧するようなことを隠蔽しているような批判は、本題からずれるだろう。これではネグリ入国禁止騒動のときに、中国・韓国も含めた世界22ヶ国では問題にならなかったという事実を指摘することで、政府に恥を知れとか言っているのと同じである。世界のなかで日本がどう思われるかなどは、はっきり言って重要ではない。イメージでも、フランス風にイマージュでもいいが、そうじゃないだろう。
これについては、アガンベンの以下の文章を読んで頂きたい。日本に先立ってアメリカでは、2004/9/30に現行の入国審査へと改定されることになるのだが、それは9.11を経て3年後のことである。これにともないアガンベンは、その年に予定されていたNY大での講義をキャンセルすることになる。その理由について述べたものが、ル・モンド紙に寄せた記事である。現在、Multitudeのサイトに転載されているこの記事は必読。非常に重要であるので、どなたかすでに訳されているかと検索をかけてみたところ、中山元訳をネット上で見つけた。メルマガで2004年に配信されたようなので、ご存知の方も多いかと思う。明解な文章なので、原文に特に説明することも、付加することも必要ないだろう。目下のところ、テロや不法入国者を未然に摘発する対策として、自国を訪問する外国人が対象となっているが、それは最終的にバイオメトリックの新技術を国民全体へと適用するための口実でしかないと、アガンベンは言っている。生政治である。外国人だから別にいいや、すべて国益のためなどと言っている場合か。
ヨーロッパ諸国でも、バイオメトリックのIDカードを実用化する計画は着実に進んでいる。どこの国の政府もセキュリティー一言で、その必然性を正当化しているのが現状である。アガンベンの記事からも理解されるように、最初はIDカードにだけ適用される管理システムが、いずれあらゆる個人情報が統合されていくことも考えられるだろう。オール・イン・ワンIDカードである。そうなれば、今、自分がどこにいるかだけでなく、何をしているのかなどの詳細な情報が、内務省のサーバーへ送信され、死ぬまで管理されるということだ。プライバシーなんかありゃしない。それは、別に出来の悪いプログラムがある日バグって、外部に個人情報が漏れることなど心配しなくとも、基本的に同じことである。

土曜日・・・朝生
「朝まで生テレビ」という討論番組が、現在でも放映されていることを、内田樹ブログの最近のエントリー「国を愛することはどういうことか」で知った。この番組は、これまでに2-3回見たことがある。もう随分前の話なので、その時のテーマが何だあったかなどは記憶にない。ただ議論が白熱してくるにつれ、各パネリストが話している内容よりも、本人らが話したいという快楽しか伝わって来なくなる頃には、ちょうど眠くなって番組を消したことは覚えている。さすがに夜通しやってるものはフランスには存在しないが、似たような討論番組は多くある。特に、選挙間際になるとその数は増える。複数が一斉に発言し収拾がつかなくなることは頻繁に起こるが、大抵その時は、順調に進んでいる事柄に対する功績を独占したがる時か、さもなければ反対に、ある問題が深刻化した原因を「お前らのとったこれこれの政策ミスだ」と相手に全責任を転嫁しようとする時である。これはこれで、たまに見るのは面白いのだが、内容が知りたいだけなら、翌日の新聞で要点を掻い摘んで解説している記事を読めば十分である。
さて「国を愛することは・・・」というエントリーだが、まず長崎市長銃殺事件について「朝生」で議論された夜、司会の田原総一朗氏がパネリストに向けて、「テロを支持するか」という問いを投じたことが書かれている。どういう流れでこの問い発せられたのかまではわからないが、提起の仕方の悪い問いだなとすぐに感じた。それについては、少し後で問題にする。ただ、これに対する回答のせいで、出演者の一人でもあった鈴木邦男氏が、右翼活動家ら別の出演者から一斉に非難を浴びたということらしい。WIKIを見るかぎり、かつてはテロを公然と肯定していた人ということだから、昔の同士から裏切り者扱いされても仕方ない。言わせておけばいいと思う。これについての自己批判的な後日談は、「失敗の愛国心」という書にまとめられ出版されたとのこと。「国を愛することは・・・」は、いわばこの書の覚書からなっており、その内容は表題が示すとおりである。
愛国心についての非常にモラリスト的な見解には、ほとんど賛同できないのだが、これについてとやかく言うつもりはない。ただ疑問に感じることがひとつあり、それについて少し述べておこう。それは「テロを支持するか」という問いについてである。鈴木さんにしろ内田さんにしろ、どうもこの問い自体の有効性については、ほとんど疑っていないような印象を受ける。そして疑っていないからこそ、この問いが要求する答えについて、真面目に考えていらっしゃるということである。別に皮肉を言うつもりはない。テロについて問題にすることは、言うまでもなく重要なことである。それはただ、テロというものが異常であるという理由からである。テロについて問うべきことは多くある。しかしながら、テロを支持するか否かという問いは、ナンセンスであるばかりか、場合によっては、テロがあるという現実から、最終的に目を背けることにしか役立たないように思われる。もしそうだとするならば、テロについて立てられる最悪の問いと見なされることにもなる。本来ならば、この問いそのものを批判するべきではなかろうか?同じ形式で問いを立てるにしても、例えば戦争や死刑の場合とは事情が異なるであろう。テロとは反対に、戦争や死刑については、それを支持するか否かという問いは有効であると思われる。ゆえに、それについての意向を述べることも必要であろう。ただし有効であると見なされるのも、それらが制度上の問題として議論されるかぎりのことであり、それ以外の理由で有効であるかということは、また別の問題である。しかしながら、制度化されているわけでもないテロについて、支持するか否かはどうかと思う。おそらく大多数の人が支持しないと言うだろう。そこで愛国心でも民主主義でもいいが、何らかの大義を引き合いにしつつ、支持しない理由を述べてみることが、どれほど重要なことかは理解に苦しむのである。テロが異常なことであることを、確認するのだけなら誰でもできるだろう。しかしながら、異常なことがなぜ発生するのかを考えることは困難である。異常なことが発生するのは、やはり異常な状況からであると思う。そこで、なぜそういう状況が形成されてしまうのか、誰の責任なのかなど、当の状況について徹底的に問いてみることのほうが、重要なのではないだろうか。こういった問いが立てられてしかるべき場を、二元論的不毛な問いで占拠し覆い隠すことは、それ自体がひとつの問題として提起されることになる。
テロに関して、ただ支持しない理由を述べてそれを糾弾することは、有害無益ではないか思われ、事実、独り善がりの自己完結的態度でしかないと言えるのである。こういった態度は、これまで述べてきたことに関連づけるなら、まさに右翼的態度と言えそうだ。たとえ右翼テロを告発するにせよ、支持か否かの問いに囚われるならば、また別の意味で右翼にとどまるということなのである。このことは、数年前にフランス全土で起こった、社会のヒステリーともいえる、例の郊外での暴動のときにも思ったことである。暴動を起こした若者を告発することは誰でもできるし簡単なことである。また、彼らが公共施設を破壊することで、共和国に対する冒涜だなどと言ってみることもできる。自分を愛せない者にどうして国を愛することができるのかと、言うのも可能であろう。だが、こういった考えはすでに、支持するか否かという提起の悪い問いのなかに折り込まれているものである。つまり、この手の問いに敢えて答えることで、そこから引き出される必然的な帰結だということである。そして今度は、帰結として手に入れたものを、いろんな方向へと回転させてみせるのだが、何か新しいものを得るわけではない。ただ内田さんが言うように、「国を愛することはどういうことか」という問いを、軽々しい答えによって消去しないというだけである。いわば長い対話の最後でみられる、ソクラテス的状態のことだが、どうせ懐疑をやるならば、別の問いに対してやってみるほうが、より生産的だと感じたわけである。つまり、テロ(あるいは暴動)を支持するか否かという問い自体にである。
先日、バスクでも元議員を狙ったETAによるテロがあった。総選挙期間中であることや、議員を狙った右翼活動家によるものという点では、長崎のケースと類似する点も多い。これについて誰かに支持するかなど言われても、正直言って困ってしまう。それは、テロが起こった政治的・歴史的背景に精通していないとか、そのことで客観的に判断できないとか、知識の問題からではない。繰り返すことになるが、答える必要がないからである。その代わりに、「なぜ」という問いを考えることを停止させるように仕向けている、この問いにはどれだけ重要な意味があるのかと言って、突き返してやればいいのである。

日曜日・・・テロ
フランスでもテロについて議論は多くなされている。政治家がこれを取り上げるときは、右も左も関係ないことを強調することから始めるのが、最近の通例となっている。これについては正しいと言える。しかしながら、問題に対する接し方から対処の仕方にいたるまで、右と左では異なる点が多くある。ここでも、ドゥルーズが言うような知覚が問題である。何時でも、とりあえず自分の利益は維持・確保しようとする右翼は、自己から始めて問題を扱おうとするあまり、諸々のテロ行為がなぜ起きるのかには、実際のところ、あまり興味がないように思われる。それは、彼らが提起する問い--テロが起こる現実で、それをどうやって未然に防ぐか--のなかでもすでに確認されることである。この問いは、テロが起こらないようにするにはどうするかと問うものではなく、テロが起こるという前提でしか妥当性をもたないと思われる。そういう次第だから、未然に防ぐにはどうするかと右翼が自問するときには、管理・監視システムのことしか頭に浮かばないのである。こういった考えがどこに行き着くかは、すでに述べたとおりである。監視カメラ・衛星システム・バイオメトリックというものである。テロの問題を、こういったセキュリティー装置へと性急に結びつけることは、どう考えてもおかしいし、どこか狂っているのである。ナイーヴだと思われても仕方ないが、一体何のためセキュリティーなのかと考えてしまう。誰にとってシステムなのか?誰が必要としているのか?と問いただしてみる必要がある。当たり前のことだが、そこには最先端の技術が投入されているわけである。またそれに伴い、莫大な資金はもちろんのこと、人間の知性やエネルギーが多大に投資されるということになる。単純に言うと、これらをもっと別の目的に利用することはできるのではないかと思うのである。例えば、日増しに深刻化する世界での貧困問題とかにである。いや、そのことは当然考えているし、現に援助などもだいぶ前からしているなどと言うだろう。それではさらにナイーヴに言うが、なぜ改善されないのか?改善されないどころか、地域格差は拡大する一方ではないか?事実、バディウやドゥルーズの対談からも理解できることだが、経済大国あるいは自称世界の治安監視国というものは、自らの存在理由というものを、まさに世界が分裂していなければならないという前提にして考えているのである。
ここで貧困問題を例にしたのも理由があり、フランスにおいてこの問題を、テロの問題と結びつけて考える人々が増えてきているからである。おそらく左翼の(仏)知識人のあいだでは、すでに周知のことであるだろうし、エッセイから理論書まで様々なスタイルで書かれた出版物も多くある。これら二つの問題を直結させ、平行して論じることはなくても、反グロ・反帝国をテーマにして書かれたものからならば、いくらでもこの相関関係について読者自身が考えることができるようになっている。活字が苦手という人も、ドキュメンタリーやルポルタージュなどから、見たり聞いたりはしているだろう。例えば、数ヶ月前にフランス国営テレビで放映されたルポルタージュに、貧困とテロの関係をダイレクトに扱っているものがあった。そこで取り上げられていたものは、昨年の4.11にアルジェリアで起こった自爆テロとその実行犯の出身でもある貧困地区についてである。このテロはアルカイダが犯行声明を発表している。その後、数回に渡ってアルジェリア国内で発生し、現在でも厳戒態勢が続いている。もっとも最近のものは、昨年の12.11に国連機関を狙ったものであり、多数の死傷者を出した悲惨なものだった。ちょうどその数日前には、サルコジが3日間の公式訪問を終えた矢先ということもあり、フランスでは大体的に報じられていた。いつものことながら、これに対する公式発言は、「いかなるテロも犯罪行為であり正当化できないことを再確認する」というものだが、支持しないは当然のこととして問題は何だということである。確かルポルタージュは、この数日後に(たまたま)放映されたものであったと記憶する。誤解されても困るので最初に断っておくと、以下の報告は別にテロを支持するとか、テロを正当化できるかというものではない。ルポルタージュを制作したジャーナリストも、そんなことを意図してカメラを回したのではないだろう。ただいつものように、不幸にも起こってしまったテロに対して糾弾するのは簡単だが、異常なものが生まれる背景には異常な事態が存在していることを、とりあえず知っておく必要があるということである。そして、そこから真の問題は何かについて、各自が考えてみる必要があるのではないかということである。こういったことに、改めて注意を促しておく必然性を感じるのも、正直疲れることであるが、誰が読んでいるかわからないので、必要かと思う次第である。
さて問題のルポルタージュは、アルジェリアの現状を簡単に紹介することから始まる。90年代のテロ暗黒時代から、徐々に回復しつつあるアルジェリアはここ数年、天然資源の貿易高などにより、景気はそれほど悪くないということらしい。有名ブランド店が立ち並ぶ地区もあれば、国内では初となる地下鉄工事も進行中であるという。(アフリカではカイロに次いで二番目。)このように表に現れる世界とは反対に、そこからわずか数キロ先の小高い丘にある貧困地区では、街灯も水道も整備されていない地区がある。天然ガスや石油を輸出している国でのことである。2キロ先の給水ポイントまで、一日何往復もする子供たちの姿。バラックでのすし詰め状態の生活。失業者は軒並み25%を超え、都市部郊外では80%に達する地区もあると報告されていた。特に若者の失業は深刻だというが、政府がどのようにこの問題に取り組んでいるのかまではわからない。アルジェリア人であることが恥ずかしいという者もいる。国家の経済システムから排除された若者たちは、裏社会で生きることを余儀なくされることになり、路上と刑務所往復に始まって、最後は質の悪い麻薬に依存というのが、そこでの日常ということらしい。4.11のテロ実行犯のひとりも、こういった貧困地区の出身者だったとされる。アルカイダが地元の過激派グループを併合し、マグレブ諸国へと活動拠点を広げてきたのは最近のことらしい。長い間テロと共存してきたアルジェリアも、自爆テロは昨年の4.11が初めてということだ。新たな暗黒時代に突入したということになる。アルカイダの組織は、社会から排除され行き場をなくした若者らを勧誘し、自爆テロへと仕立てあげている。テロ直前に撮影されたビデオのなかで、犯行声明を読み上げている姿は、すでに出来上がった一人の殉教者である。しかしながら、6ヶ月前に急に姿を消すまでは、原理主義とかモスケとかには、まったく縁のないやつだったと、実行犯をよく知る若者は言っていた。勧誘から洗脳までには、2-3ヶ月もあれば十分ということだが、さほど時間は要さないという意味なのだろう。もし家族に普通の生活が保障されるなら、組織の勧誘に対して断る理由は見当たらないと言う若者もいる。。。因みに、4.11の実行犯の家族は、以前と同じ生活をしている。どう考えても、何かが狂っている。異常だ。
問題は何か?こういった悲惨な証言を耳にすることで、彼らを同情してやることだろうか?それとも宿命論的に、「自分も何かいろいろ問題はあるけど、彼らよりは恵まれた状況にいるな。それにしても、これじゃテロとか起きてもしょうがないや。」と、言ってみることだろうか?そうではないだろう。どれをとっても右翼の視点であって、何ら核心に触れるものではない。何が問題であるか、自分で考えてもわからないなら、とりあえず相手が何を望んでいるのかを、聞いてみれば済むことではないだろうか?別に同情してくれなど、訴えていないではないか。ただ普通の生活---仕事して、結婚して、子供産んで、蛇口ひねればいつでも水が出てくる家に住みたいと言っているだけである。人間を爆弾へと変質させてしまうような、異常な現実があるということが問題で、しかもこれはアルジェリアだけに見られるのではないということである。事態が悪化した場合にメディア化され、多くの人が知るところになるだけである。この場合は、アルジェリア政府、あるいは歴史的特異な関係にあるフランス政府に直接関わる問題だろうが、利権を求めてこの土地へとやってくる国・企業は、日本も含め多く存在するのである。したがって、まったく関係ない問題でもなければ、利害関係を抜きにしても、関係なくはないのである。イラク戦争が勃発したときにあったフランスのギャグ。アメリカのある田舎でのこと。マックとコーラとテレビゲームのせいで歩くことすらできなくなった肥満児を、学校にマイカーで送り向いするママの話。ガソリンが必要だ、イラクへ行けとか言って笑ってられるのは、恵まれた国にたまたま住んでいる者だけである。
テロに関して言えることは、それが何か発生するものという前提に立つことで、自国のセキュリティーだけを強化すればよいという問題ではなく、やはり発生してもおかしくないような状況を改善することに目を向ける必要があるだろう。別のコンテクストでバディウがTV対談でも言っていることだが、セキュリティーがどうこう言って大騒ぎしている自分たちよりも、テロが実際に起こっているところで生活している人々のほうが、よほど危険な状況に、セキュリティーなどまったくない空間に置かれているというのが現実なのである。また、そういった状況を改善することは、別にテロ組織を撲滅すれば済むという問題でもないだろう。それというのも、類似する状況があるかぎり、ある組織を壊滅させても、また別の組織が現れることも考えられるからである。
*   *   *
ルポルタージュのなかで、ある若者とジャーナリストのあいだで、次のようなやりとりがあった。「あんたフランス人か?もしよかったら、俺を連れて行ってくれないか。」-「なんで、フランスなの?」-「どこにしても、ここよりはましだと思うからさ。」---
短いやりとりだが、多くのことがここに要約されている。始めて会った見ず知らずの人に向って「一緒に連れて行って」など、事情がわからないうちは、冗談としか理解されない。だが、言っている本人にとっては、かなりシリアスなことである。テロについて述べたこと。起こらないように状況を改善することは、ある意味、移民の問題とも関係してくる。本質的に右翼的な政府・国家は、国益という名において、必要な時には移民を奨励する政策をとるにせよ、社会システムがうまく機能しなくなった途端に、選別、制限、退去など勝手なことを言うのである。世論はもっと無責任で、失業や治安の問題を、移民の問題へとスライドさせることをあからさまに言ってみたりする。これはこれで問題だが、ここでは副次的なことである。ただひとつだけ言っておくことがある。それは、自国のパスポートを所持する者が、移民に対して持つ至上最大の誤解についてである。それは、移民としてくる人々が、何か好き好んで来ているのではないかという誤解である。なぜ誤解かといえば、大半の移民は遊びに来ているのではなく、仕事をしに来ているからである。そしてなぜ仕事をしに来なくてはならないかといえば、テロが起こるような極端な状況でみたように、彼らがいる土地では普通に生活できないからである。また、なぜ普通に生活できない状況なのかという理由は多岐に渡るだろうが、ほとんどの場合は、現実にある戦争あるいは内戦などによる被害、あるいは植民地時代の痕跡によるものだろう。帝国主義の利権をめぐる闘争に巻き込まれているのである。何もないところには、何も起こらないのである。
少し考えてみるとわかることだが、誰でも生まれ育った土地には愛着を持つことは自然な傾向であるし、その土地の水のほうが身体にあっているのである。そういった土地を後にしなくて済むのであれば、わざわざ見知らぬ国へ来る必要などないのである。このことは、炎天下のなかでインフラの整備をしている人間や、厨房の片隅で皿洗いをしている人間などの名誉にかけて言うのだが、それを何だ、帰れとか。おかしいではないか。自分たちの年金だって、彼らが国家に納めている税金で賄っていることをご存知だろうか。問題は何だ?自分たちとは異質の習慣を持っている人々に来て欲しくなかったら、彼らが来なくても済むように、彼らがいるところの状況を改善してあげればいい話でないか。それには、学校や病院を建てる資金援助などは当然のことだが、もっと技術や知識をタダで教えてあげたりすることが大事なことだと思うのである。

月曜日・・・差異と反復
蛇足だが、先日騒がれていた、(毒入り)ギョーザについて一言。このニュースを聞いた時に真っ先に思ったのが、「みんなもっと世界で起こっていることに興味を持とうぜ」、ということだった。政治とかには関心がなくても、せめて自分が日常的に使用している製品や、飲み食いしているものぐらいは興味を示してもよいと思う。例えば次のようなことで、どこから来るのか、どのように生産されているのかに始まって、そこで人はどういった条件で働いているのかなどである。ギョーザでも何でもいいが、それはスーパーで買うものであって、作るものでないと思っているなら、どこか何かが狂っている。子供だったら、それはそのままの形で、植物のように大地から生えてくると想像するかもしれない。だが、もしそれは買うものだと思っている人が、果たしてそういう子供たちをバカにできるか、ということが問題である。直接的に知覚できる範囲で物事を捉えているのは、買うものと思う大人のほうで、ある意味で子供以下の知性ということになる。それというのも子供のほうがこの場合、少なくとも想像力を働かせており、言っていることが間違っていようが、知覚によって形成される現在から超出しているという意味で、大人よりも遠くのことを思考しているからである。試しに今度、最近流行っているらしいギョーザ作り器には頼らずに、自分の手で作ってみたらどうだろうか。皮ぐらいは買ってもよいが、ギョーザだねは自分でやってみた方がよい。ネットでレシピは各種出てくるので、本を買う必要はない。一度やってみるとわかるが、単純なことだが結構面倒なことに気づかされる。それと同時に、以前紹介したTV対談でバディウが言っているコミュニズム的仮説のある側面---各自がポリバランスでいるような世界という意味が、少しは理解できるかと思う。バディウがそこで言わんとしていること。何もできることはすべて自分でやれとか、かつてフランスにいたマオのように郊外の農園で自給自足の生活しろとか、いささか冗談ぽいことを想起してしまうが、そんなことは言ってないだろう。とりあえず、身近にあって自分と直接に関係をもつ物などを通してでもよいから、世界で起こっていることに興味を持とうということである。考えてみると当たり前のことなのだが、自分が日々使用する物が、自分の手によって作られたのでないならば、他者の労働力に依存しているということである。すると上で列挙したようないくつかの問いを発することになるわけだが、さらにここから一歩押し進めることで、見えなかった世界が見えるようになってくるということである。自分で作るには時間も労力の要る。それにしてもなぜこれは、これほどまで安いんだろうか?どこで?誰が?etc・・・
行き着く先は同じである。一挙にそれがあるところへと身を置くような、異常なものとの出会いがなくとも、身近な世界に対して発せられるひとつの素朴な問いからも、世界が拡張されていくことに気づかされるのである。例えば、先程の子供のような視点で世界と触れることも可能である。子供になることと、ドゥルーズは言うだろうか。兎に角、知覚されるものを通して、その背後に広がる世界に関心をもつということである。関心を持つこと。これは、関心を持たないことについて考えてみることで、うまく説明できる。関心を持たないこと。これは興味を示さないこと、無関心なことであるが、フランス語だとアンディフェラン・indifférentということである。つまり、差異なき状態ということだが、もちろんそれは、外部世界というよりは、むしろ自分たちの内的世界のことである。換言すると、知覚されるものとか、受容されるものによって、内的変化が生じない状態であり、自己との差異化がない状態ということである。この状態を一言でいうなら、右翼ということ。右翼とか呼ぶのは勘弁してくれということなら、生理学的にはインポテンツとか勃起障害、医学的には全身麻痺とか麻酔にかかって無感覚になった状態とでも言える。バディウだったら、ねずみと言うかな。関心を持つこととは、したがって、出会いのなかで自己との差異化にいたるということである。こういうことを、(毒入り)ギョーザの一件で感じたことなのだが、それがなんだ。マスコミにしろ、中国人が毒を盛ったとか、テロだとか、ちょっとどころか、だいぶ頭がおかしいのではないか。こういうことを言う連中は、実際に毒にあたって死ぬ前に、すでに別の毒に侵されて精神的に死んでいるのと同じだろう。中国人がどうこう言う前に、自分の頭の解毒治癒とリハビリから始めるのが順序ではないのか。
限がないので最後に一言。今日において食糧品に関する問題が深刻化していることは、周知のことである。これは別に、日本にとっての中国からの輸入品に限ることではない。イギリスに始まってアメリカの狂牛病や、アジア諸国の鳥インフルエンザなど、例を挙げれば限がない。こういった農作物に対する衛生・安全の問題に加えて、もうひとつは需要供給バランス問題からコスト問題がある。後者については最近いろいろ話題になっているが、温暖化による生産性の低下と中国・インドの人口大国による全般的な消費量増加などが原因とされている。資本主義の論理からみると、当然のことながら、生産性と購買力を推進するという方向性へと突き進むことになるが、自然が見方してくれなければ限界ということだってあるだろう。また、企業にしても国家にしても、とりあえず現状維持を求めるのであれば、とりあえずその皺寄せは、各セクターでの弱者に集中するだうし、それでも上手くいかないならば、管理する立場にいるものが適当に帳尻をあわせようとすることもあるだろう。何か適当なことを言っていると思われるかもしれないが、日本でも老舗による賞味期限改竄や産地偽装などで、すでに立証済みである。例のギョーザの一件にしても、何かこういった市場重視の資本主義システムの悪しき部分が表面化しただけのように思う。事情はよく知らないが、似たような問題から想像すると、コストパフォーマンスに対するオブセッションから、親会社の管理不足、労働者への不当な扱い、第一次産物の生産過程から農薬の濫用などの累積だろう。社会的には親会社が責任をとればよいが、狂ったかたちでしか作動しないシステムの問題なので、まさにそのなかにいる人々全体に向けられている課題である。
こういった食糧に対する不信から、最近では有機栽培とかBIOなどの生産物が流行っている。実はこのBIO運動には、一般には気づかれていない闘いがある。BIOのものを生産・消費するのも、それがただ健康や環境によいというような、気取った理由からだけでない。確かにこういった側面はあるが、もっと深いところでは、市場重視の資本主義あるいはそれに基づくグローバル化に抗する政治的な運動という側面がある。具体的に言うと、エコシステムを尊重する小生産者への連帯や、地方特産物の保護などであり、要はファーストフードや世界のマクドナルド化に対する挑戦なのである。

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何かいろいろ書きなぐった感がありますが、言いたいことは、グローバル化の問題はもはや国家・国民レベルの問題ではないということだけです。それが今、左翼に求められていることであって、この辺りが理解されないと、フランス発のニュースとか、現代思想など読んでも何を言っているのか理解不能と感じるわけです。日本でいわゆる左翼と言われている活動家、知識人のことなど、自分でもよくわからないことが多くあります。例えば、死刑制度が未だに存続している日本で、フーコーがどのように読まれているかなどです。前エントリーに書いたのも含め、ここは違うとか、日本はこうだとか、誰か教えてくれると助かるのですが。隠しモードでも構いませんので、コメントして頂くと有りがたく思います

スレッド:国際問題 / ジャンル:政治・経済

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2008.04.27[Sun] Post 15:57  CO:1  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

左翼の日記(前編)

月曜日・・・左翼と右翼
日教組とプリンスホテルの一件に始まって、ネグリ入国禁止令や映画「靖国」に至るまで、ここ数ヶ月のうちに日本から発信されるニュースは、本当に呆れてしまうものが多い。何もせずにただ傍観していても、敵を喜ばせるだけなので、これらのニュースについて考えることを、自分の頭を整理する意味も含め、少しメモをとっておこうかと思う。すでに言及されていることと思われるが、土壇場になって真正右翼らの力に屈するという点で、これらのニュースには共通することが多く見られる。ある意味、右翼的傾向が勝利をおさめてしまう現実は、人間的自然の摂理なのかもしれないなどと、ひとつ前のエントリーで紹介したドゥルーズの対談映像を見ながら、切に思う今日この頃である。それというのも、宛名の例を引きながらドゥルーズが説明するように、自己から始める知覚の仕方はごく自然な傾向であるし、またそのことで思考あるいは行動というものが規定されるのだとすれば、人間が右翼でいることは自然的な態度であると思われるからである。してみれば、人間が形成する諸々の状況が右翼化していくのも自然の成り行きであることと、また、それを放っておくことにでさらに右翼化が進行することは、容易に想像できることである。ただそのことで、何ら不都合なことが起こらないならば、人間社会が右翼化していくこと自体、取り立てて問題にする必要はないであろう。しかしながら、歴史が教えてくれるように、例えば戦争などが起こる背景には、必ずと言ってよいほど、自らを中心として世界そのものを右翼化していくような過度な傾向を見出すことができるのである。ドゥルーズが右翼について積極的に定義しているテクストがあるのかは知らない。しかしながら、以上のようなことは、対談のなかで「左翼ではないこと」について述べている部分からも、引き出すことができる帰結である。
最近、左翼あるいは右翼について、ネット上で議論されているのをよく見かける。面白いものもあるが、一般に認められている主義主張や、歴史的な運動あるいは過激な団体へと、性急に結びつけることで満足しているものが大半である。例えば、あるひとがマルクス主義に傾倒しているとして、そのことで彼が左翼というような場合である。もしマルクス主義と左翼を結びつけたいのなら、逆が真であって、人は左翼であるからマルクス主義に共感することもあり得るということである。同様にして、左翼を急進主義者やコミュニストと、右翼を保守主義者あるいはナショナリストなどと言うことがあるが、このように表現される政治的立場、またはそこから発せられる主義主張は、ドゥルーズによると、相異する知覚の仕方から導きだされるひとつの帰結でしかないことである。左翼と右翼のあいだでなされる議論で通俗化しているものは、それぞれの立場から引き出される結果だけを対立させ、互い中傷し合っているようなものである。自然的な在り方とは異なるものを創造することに左翼の使命があるならば、始めから右翼と同じ土俵に立つべきでなく、敵を寄せつけないような場を開拓すること専念することが必要となる。そして、そこにおける異質な生の在り方を提示し肯定することで、否定的なものに囚われている敵を悲しませてやればいいのである。このことは、先の仏大統領選でも明暗を分けた大きな点であると思われる。左翼に求められていることは、本来ならば、肯定すべき事柄を前面に打ち出することであって、敵の批判などには序でに携わればいいのだが、形勢が不利になるや否や、自らの使命を忘れ、反動的な敵に対して反動によることでしか応戦できなかったことが、そもそも負けた原因なのである。いずれにしても、政党政治のことは、ここでは問題ではない。
ある人が左翼なのか右翼なのかは、まず知覚上の問題であることを、対談のなかでドゥルーズは絶えず強調している。宛名の例が一番わかりやすいが、左翼とは世界の果てから始めて自己へと向う方向をとるならば、右翼とは反対に自己から始めて徐々に遠くへと赴くような知覚の仕方で規定されると言っている。ひとつの極からもうひとつの極へと、知覚が向う方向性が相反することから、一見すると、これら二つの知覚の仕方は、何か対立するものとして理解されるかもしれない。しかし、そこから単純に左翼の反対が右翼であると言えるのだろうか?互いの主張が対立あるいは矛盾することがあるにせよ、そのことは単なる結果として皮相的に現れることでしかないのである。思考する対象が何であれ、そこに対立や矛盾をすぐに見出そうとするならば、いつでも重要なことがらを取り逃すことになるということは、これまたドゥルーズが批判して止まない点でもある。事実、ここにおいて対立として現れるものはたんに見かけのことでしかなく、二つの知覚に基づく、相異する世界の接し方が問題なのである。知覚の「仕方」ということでドゥルーズが言いたいことは、知覚されるものへ向う傾向性が問題であり、見えるようになる外的な差異などは、そういった内的差異の産物でしかないということである。したがって、知覚されるものをどのように受けとめ、いかにそれを思考するのかというような、異質な態度を明らかにすることが重要となる。
してみれば、異質なものについて、それが対立するとか矛盾すると主張するのは、誰かということが問題になる。これに対する答ることは、ドゥルーズの哲学全般に関わることであり、彼の著作のなかで至るところで見出すことができる。ごく簡単に言うなら、右翼の観点からということである。それというのも、右翼には(左翼も含めた)異質なものに対する先験的否認の傾向をもっているからである。異質なものに出会っても、すっかり出来上がっている自らの視点に固執することしかできないので、それ自らに対立するもの、矛盾するものとして受けとってしまうのである。これは、右翼のもつ自閉症的な傾向であり、実にかわいそうな点でもある。自分以外のものを否定することで、自らのアイデンティティを形成するような右翼は、まずもって左翼あるいは左翼になる契機として考えられる異質なものとの出会いのなかで、自己との差異化ができないような老いぼれである。したがって、不名誉なことであるが、右翼がインポとか老婆とか形容されても無理はないのである。ほとんど瀕死状態の右翼ではあるが、問題はこの状態こそが人間にとっての、自然的な在り方を規定しているということである。

火曜日・・・飛躍
人間とはその自然状態では右翼である。このことは、どの時代に生を授かろうが、またどの土地で生を営もうかには関係ないことである。ドゥルーズが言うように、誰でも近所のゴタゴタの方が、隣国あるいはさらに遠い土地で起こっている問題よりも重要であると感じるような、日常的・素朴な態度から説明できるだろう。とはいえ、通信技術が発達した現代において、余程ネットやテレビもないところで自給自足の生活をしているのでないかぎり、程度の差はあるにせよ、世界で何が起こっているかぐらいは、知らないはずがないだろうと、ドゥルーズは言う。対談のなかで挙げられている例は、収録当時のアルメニア人虐殺や、現在でも深刻な第三世界での貧困問題なのである。現在ならば、チベット自治区でのこと、あるいはイラクやアフガニスタンでの戦争、ガザやダルフールでの紛争など、数を挙げると限がない。そこで何が起こっているのかを、たとえ詳しく知らなくとも、各メディアを通じて配信される映像は、まったく非日常的で異常な光景として知覚される。幸運にも恵まれた土地で生活する者にとっては、まったく別世界で起こっているような印象を受ける。この段階では、いまだに知識や道徳などが問題ではない。「どこ」とか「なぜ」などと問いかける以前に、異常なものは異常なものとして知覚さえるということである。その時ひとは、こういった異常事態が発生してる場へと、一挙に身を置くことをしている。ドゥルーズが言う、左翼になる契機が与えられるということである。しかしながら、このように一瞬起こる知覚上の変革が、つねに純粋な状態で維持されるとはかぎらない。つまり、左翼になることに失敗し、これまで通り右翼のままにとどまることは可能である。右翼とは左翼の成り損ないとも言えるだろう。始めはどこで起こっているのかを報せられないままに知覚されるものが、身近でのことでないと理解することで、まったく関心がなくなることもある。また、関心を持ち続けるにしても、始めに受けたときとはまったく同じ仕方でないこともある。人は簡単に自己を中心とする知覚の地点へと、立ち戻ることができるというわけである。これも、ある意味で自然的な傾向であろう。
したがって問題は、もはや知覚に関することだけではなさそうだ。知覚上の一瞬の変様は、ただ左翼になることの契機であり、ただそれだけでドゥルーズが言うところの革命家へとなるわけでない。重要なことは、知覚的に被ったある種の暴力を、他の諸能力へと上手く連動させてやることであり、知覚上の革命を想像力、記憶力、思考などでも成功させることである。当然のことながら、これらの審級でも自己から始めるのではなく、当の知覚されるものがある場、問題が生起している場にとどまることが必要となる。「なんだって、知覚されるものがあるとこに赴けだって。そういうお前こそ、なぜ問題がある場に行かないのだ。」よく聞かれるバカげた批判である。今なら、チベットのことを話すのはいいが、なぜチベットに行って実際に行動しないのか、というようなことが言いたいのだろうが、ナンセンスな批判である。別に何も現地に行くとか行かないとかが問題ではない。さもなければ、人は近所のゴタゴタについてしか、思考するも語ることもできなということになってしまうだろう。「遠く」や「世界の果て」あるいはそこへ一挙に身を置くことなどの表現でドゥルーズが意図していることは、ただ何事も自己から始めるのでは上手くいかないこと、もっと正確に言うならば、社会的・経験的に形成される自己が置かれている立場から思考したり問題を提起するのは、右翼であり左翼でないといぐらいのことである。しかしながら、なぜ右翼的態度が批判されるのだろうか。理由はいたって単純である。人は自己から始めることで、いつでも自分が帰属する社会や国家などを考慮に入れてみたり、あるいは自己にまとわりつき守るべきとみなされる、経験的な諸々の利害関係のなかに捕らえられてしまうからである。それによって、知覚されたものとのダイレクトな関係を失うばかりではない。それとの純粋な関係を維持できないばかりか、まったく別のものへと変質することすら平気でやらかしてしまうからである。知覚される異常なものに対する関心が、なぜ現実に自分が置かれている立場からでてくるような諸関心と天秤にかけられる必要があるのだろうか。こんなことは、社会的に形成される疚しい良心がもつ葛藤というもので、妥協の政治でしかない。
このように、個人レベルで述べられることを、国家レベルに置き換えてみることはできるだろう。対談のなかでドゥルーズが、なぜ左翼政権などは存在しないと言っているのかを理解することができる。政府というものは本質的にその目的からして、国家や国民を統治する観点に立つことになる。そこから世界で起こっている異常な事態について関与することになるが、例外なしに自国を中心に据え置くことをするわけである。したがって、本質的に政府は右翼でしかないということだ。例えば、国益などを考慮に入れるならば、どうしても他国で起こることなどが直接的には関係ないと判断されることで、知覚されるままにそれに関与することなど、始めから不可能であると言っているわけである。ただドゥルーズが言うように、市民の左翼的要求に好意的な政府を望むことは可能である。これを政治のカラーで喩えるならば、自国のことばかり優先する極右から保守へ、中道右派から中道左派あるいは左派へと、民意によってスライドさせることは可能ということである。しかしながら、問題があるところへ一挙に身を置くことが要求されているところで、いかに知覚を拡張し、思考・行動の範囲を広げても、自己を始点にするかぎりで、本質的には右翼であることにはかわらないということである。おそらくこれは、対談のなかで寛容性について、ドゥルーズが何か言おうとして言えなかった(パルネが遮ったせいで)ことだと思う。
国家の話題が出たついでに、ここでひとつ付加しておくことがある。それは、「遠く」という表現についてだが、対談のなかだけだと、ただ空間的な意味でしか理解されないような気がする。しかしながら当然、時間的な意味をそこに含ませることは可能であろう。つまり、「いまここ」の即時的な利害関係に囚われるのではなく、もっと遠い将来のことをも考慮に入れるということである。そして最も重要なことは、例えばバディウが最近メディアを通じて繰り返し言っているように、将来の展望について思考するためには、まず過去の出来事に忠実であるべきだということである。すなわちこれは、歴史の問題であり、純粋に左翼の闘争でもある。

水曜日・・・コミュニズム的仮説
質の悪いニュースについて新聞などを読むよりも、それについて言及している日本発のブログを読むほうが断然面白い。ただ右寄りの論調で煽り立てているのに頻繁にあたると、さすがに落ち込むこともある。明日にでも宣戦布告のお触れが出たら、特攻隊に志願するような勢いのあるブログについては、取り立てて何も言うことはない。ただプロが公然とやっているものに対しては、そのうち纏まったものを出版して批判してやる計画はある。どこに行っても自国旗を掲げながら、隣国を中傷して喜んでいる連中はいる。フランスでも同じだ。最近流行りの言論の自由とか表現の自由とか言うのも勝手だが、そもそも連中が自由とか言っているものも、元はといえば、左翼的運動によって歴史的に獲得したものだろう。いずれにせよ、その他大勢が言うようなことを、ほとんど同じトーンで発言することに、一体どれだけ価値があるのだろうか。世間で通用している、しみったれた事をコミュニケーションするために、言論とか表現の自由などはない。自由という言葉を聞くことで無反省に大喜びするのは、恵まれた国にいる右翼の特徴である。困ったことだ。それよりも、連中を黙らせるようなディスクールを、左翼は考案する必要があるだろう。その場合にひとつ重要だと思うことは、右翼が使用する言葉を使って思考するのは止めたほうがいいということである。
多くの点で共感することはあるものの、左寄りの論調で書かれたものを読んで、たまに受ける違和感というものがある。それが一体どこから来るのかと考えてみた。ひとつは、右翼とは別の仕方であるが、「国益」という言葉で物事を考えすぎているような印象を受けるという点である。上にも書いたが、「国益」などを問題にする時点で、左翼的と呼ばれる思想も、忽ちのうちに自家撞着に陥ると思われるのだが、どうなんだろう。ネグリ入国禁止や、映画「靖国」に関するブログでも、当局の不当な権力行使というものが長い目でみると「国益に反する」とか「国益を損なう」とか言うことで批判しているものをみるが、そもそも国益などは、ここでは問題ではないように思われる。言いたいことはおそらく、国家云々よりも国民の利益ということなのだろうが、それにしても結局は同じことである。最近つくづく思うことだが、今日のように市場原理に基づくグローバル化が加速するなかで、それによって引き起こされる世界的諸問題を思考するのに、「国家」とか「国民」などの言葉では、もはや不可能であるということである。国家あるいは政府を批判するにせよ、別に国家や政府のためを思ってやっているのではない。親が子供を叱るときに、「あなたのためを思って言うのだけど」とは、まったく事情が異なるのである。つまらない批判を前もって排除すると、こう言ってみることで、ある任意の国が好きだとか嫌いだとかを問題にしているのではないということである。ただ、国家などは何か達成されるべき至上の目的ではなく、むしろ最終的に乗り越えるべきものであるということである。バディウの言うところの、コミュニズム的仮説というやつだ。この点について興味ある方は、過去記事検索してください。

木曜日・・・無名のネグリ
ネグリ入国禁止のニュースは、フランスではほとんど話題にならなかった。姜尚中氏の言葉を借りれば、この事件に関してネグリは、フランスにおいては「無名のネグリ」ということだ。おそらく一番早く報道してたのは、日本のニュースを扱うサイトによるものだったと思う。日本からの一報と同じで、ネグリが渡航をキャンセルした経緯の簡単な報告と、7月のサミットに向けて政府がアルテルモンディアリストらの入国に神経を尖らしているという程度のものだった(3/24)。許可するか否かを最初からはっきりしておけばいいものの、ドタキャンして恥を晒してまで、政府が守らなければならない利益は何なのか。誰にとっての利益なのか。どうでもよいが、国民とか言うのだけは勘弁してくれ。
今回のネグリの件について、イベントの主催者の一人でもあった姜尚中氏が、Youtubeに投稿された映像のなかで、次のようなコメントをしているのを見た。今回のことが多くの人々の関心に触れることになったのも、ひとえにネグリが著名人であったからとのこと。確かにそうである。著名人だから騒ぎになったということ。裏返して言うと、万事が予定通りに進んでいたら、そこでは何も起こらなかったということである。「無名のネグリ」たちは、これまで通り無名のままであったということだ。メディアに取り上げられないような社会運動も著名人が関与し、それについて積極的に発言することで、始めて広く一般に伝達されるようなケースは少なくはない。フランスでは知識人のみならず俳優などが、ひとりの市民として積極的に社会問題に関与することでメディア化することに成功し、政府に圧力をかけるようなことはよく見られる。問題が解決するかどうかは、ここでは重要ではない。社会のなかでまるで存在しないかのように扱われている人々が、現に存在するということをひとつの事実として、問題提起することがまず重要なのである。仏著名人がアンガージュするものに、ホームレスや移民の問題が多いのもおそらく偶然ではないと思われる。それというのも、右翼的な政府が強いる社会のなかで、まっさきに排除され、もっとも無視されやすい存在であるからだ。ランシエールなら、声を奪われた存在者と言うだろう。そもそも、無名のネグリとは誰のことか。短い映像からは判らないが、もしネグリのように何らかの国家理由で入国を拒否される者というだけなら、せっかくの言葉も効力を最大限に発揮できないままに、そのうち消えてしまうだろう。それはまず帝国によって虐げられる人々。さらには帝国に抗して闘う人々。世界の至るところで加速する帝国主義に対して闘う無名の革命家らすべてについて、適用できる言葉だと思う。そして、帝国に対する様々な運動に新たな共同体の価値を見出し、それらを連動させるような理論がマルチチュードではないのか?これは、左翼の問題である。
例えば、日本においてまず思い浮かぶのが、根津さんや河原井さんらの「君が代不起立」である。マスコミはもとより、日教組側も消極的であったために、一連の運動ならびに、それに対して石原政権下の都が下した活動家に対する制裁の数々は、ごく僅かの連帯者を除いて長い間黙殺し続けられていた。全国各地で不起立が増えてきたこと。また今回の裁判で最悪の場合、根津さんが懲戒解職になること。ようやく一部のマスコミで取り上げられることになったが、それでも最初は「読者の声」という枠で、間接的に記載することにとどめていた。(プリンスホテルの一件とマスコミの反応の格差には呆れてしまう。両者ともに有名だから話題性があることだし、新聞も売れるというわけだ。)これまでの記録の詳細に興味がある方は、有志らによるHPVideo Press社が制作したドキュメンタリーを見ることをお勧めします。尚、現在でも署名は受けつけているようです。空間的には身近にあるが時間的には遠くなりつつあるこの問題。チベットもオリンピックもよいが、個人的には重要だと思うのだが。。。(続く)
2008.04.24[Thu] Post 17:13  CO:0  TB:1  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

ドゥルーズ - 左翼とは何か?

ドゥルーズの対談フィルム・Abécédaireが収録されたのは1988年である。その前年まではパリ8で教鞭をとっていたので、退官した翌年ということになる。WIKIで知ったことだが、生前に放映することを禁止するという条件で、ドゥルーズはこの企画を承諾したようである。しかし実際は、94年末からARTEにて少しずつ放映されることになったことが、ここに書かれている(pdf)。450分に及ぶ対談の全編は、VHSとDVDに収められ、Montparnasse社から出ている。ドゥルーズの著作は、現在進行中の「シネマ1」を除いて、すべて翻訳されていると思うが、この対談の字幕つけは誰かやっているのだろうか。数人集まってやれば、1ヶ月ぐらいでできると思うのだがどうなんだろう。でも字幕を加えて新たなヴァージョンとなれば、日本語だけというわけにもいかないだろうから、いろいろと面倒なことなのがあるのかもしれない。いずれにしても、仏語で聞くのにこしたことはないのだが。さて、対談の大まかな流れについて、ドゥルーズは事前に聞かされていたようだが、AがAnimal、BがBoisson・・・となることや、質問の内容までは知らなかったと言われている。(対談の内容はこちら)。
最近、G cô Gauche(左翼)の項のほぼ全編がUPされたので、それを使ってためしに字幕をつけてみた。ドゥルーズはそこで、「左翼でいること」を定義づけしているが、ネグリ入国禁止、いくつかの映画館での「靖国」上映禁止、あるいはチベットで起きていることなど、最近の不条理な問題(ますます住みにくくなる世の中での、個別的な一事例でしかないが)を、自分なりに考えてみるヒントになると思う。特に、最後の方でドゥルーズが引き合いに出す例--日本的な知覚の仕方(ただし宛名書きに関して)--は、初期のヒューム論で展開されているシンパシーの拡張という方向とは正反対の方向、パラサンスが問題であって、これが左翼の知覚などと言っている。このファイルは、Gの全編ではなく、前半部分カットで投稿されている。たぶん時間の関係からそうしたのだろう。(Dailymotionは20分/ファイル)。カットされている部分でドゥルーズは、まずパルネの質問に対して、同世代の人間が共産主義あるいは党へと傾倒しているなか、なぜ自分は距離を置いていたかについて、若きし時分の回想することから始まっている。集会でまとまりのない話を延々と続けたり、街でビラを配るよりも、自宅で勉強していたほうが生産的であると思っていたなどと告白している。また、投稿動画へと繋がる直前の部分では、革命によってもたらされた悪しき部分を後から見出しては、革命は失敗したなどと騒ぎ立てる連中を批判している。ベルクソン論などでも展開される「潜在的なもの現実化」というテーマが、ここでも重要なのだが、すでにあるものを「発見すること」と、それまでなかったものを「創造すること」とは本質的に異なること、思考にとって重要なことは後者であることが言いたいのだろう。
長年、呼吸器の疾患に苦しめられていたことは周知のことだが、話す前に大きく息を吸う姿は、まるで水泳の選手のようである。それにしても、クレール・パルネはよくタバコ吸う人だな。吸うのはいいが、煙ぐらいは老哲学者の方へいかないように注意してもよさそうだが。





スレッド:文明・文化&思想 / ジャンル:学問・文化・芸術

2008.04.05[Sat] Post 00:46  CO:0  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

バディウ - ユマニテ紙企画の対談映像

ユマニテ紙によるバディウの映像。先月の9日、同紙友の会の定期会合に招待された時に収録されたもので、要旨は11日付けの記事で読むことができる。コミュニズム的仮説からペタン主義へと展開される内容については、すでに各所で繰り返し述べられているので、もはや説明不要かと思う。尚、続編が後日オンライン化されるとのこと。



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先日投稿したジジェクの動画が削除された件で、Dailymotionにメールを送ってみた。やはり、コピーライトに問題があるとのこと。そうなると、もうひとつの動画も削除されてもおかしくないのだが、これについては特に何も言われなかった。同サイトで100万を超えるような人気コンテンツのなかにTVで放映された映像が多くあることを、Dalymotion側が知らないはずがないと思うので、徹底した取り締まりみたいなことは、とりあえずやってないようだ。たまたま使用されたサムネイルのせいで、ポルノグラフィーに間違えられたのが、削除された主な理由かと考えてみたりする。ただ、これまでに投稿した分は放置しておくとして、新たに投稿するのはやめておこう。
2008.03.09[Sun] Post 14:23  CO:0  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

アラン・バディウ Rue89での対談

Rue89というニュースサイトが企画収録したバディウの新しい対談映像が、先月末からDailymotion経由で見ることができる。<DE QUOI SARKOZY EST-IL LE NOM ?>でも展開されている、バディウが擁護する「コミュニズムの仮説」や「68年」という出来事については、FR3(10/25)を始め、ユマニテ紙(11/6)、Obs(11/21)やBFM(12/14)などで行った対談でもすでに言及されているので、重複する部分も多いが一見の価値はあると思う。俗に言う「ヌーヴォー・フィロゾフ」(死語?)らとは一線を画し、普段はメディアと距離をとっているバディウが積極的に依頼に応じているのも、当初は弱小出版社を支援するためなどと冗談を言っていたが、やはり市民・労働者運動の末に獲得してきた歴史的・社会的諸権利が、サルコジによって悉く清算されつつある現状を、黙って見過ごすわけにはいかないというのが本音だろう。

今年に入ってからサルコジの支持率は急降下した。選挙公約でもあった購買力の問題が一向に改善されないことや、私生活の衒いなどが主な原因であると言われている。来月には統一市会議員選が行われるが、激戦区にいる保守派候補からは、支持率が低下している大統領に対し、選挙運動にはあまり関与してもらいたくないという声があがっている。国会でのカラーを決める統一選ならまだしも、大統領が地方選にまで干渉することには疑問である。しかしながらサルコジは、ある時は関与すると関与すると言ってみたり、その二日後にはしないと言ってみたりと、一貫性のない発言を繰り返している。世論調査の結果を常に気にかけていると言われるサルコジも、さすがに急激な支持率低下には当惑しているようである。私生活の極度な露出に関して、年金生活者層から特に批判的な声があがっていることから、急遽、約60万にのぼる低年金生活者を対象に(たった)200ユーロの特別手当を支給することを発表した。年頭の記者会見の席で一向にあがらない購買力についての質問に、「国庫が空なのに、どうしろと言うんだ?」などと、しらばっくれていたのは、つい1ヶ月前のことである。調子が悪くなるといつものように、得意のばら撒きでその場凌ぎというわけだが、余計に不信感を募らせるやり方である。これまでひとつの問題に世論を集中させないためなのか、次々に新しい話題を振りまくことで、よく動く大統領のイメージを与えることには成功していたが、どうやら徐々にそのイメージも剥離していく傾向にあるようだ。市民が望んでいるものは、結局のところ、サーカスよりもパンの方である。イメージアップを計っても、今後は購買力が改善されないことには、サルコジの支持率は上昇しないと思われる。そもそも始めから、それが理由で選出されたので当然と言えば当然なのだが、単純に給料を上げればよくなる問題でもなければ、奇跡的な解決策が望めないだけに、これからも苦戦を強いられるだろう。これまで首相以下を差し置いて、自分だけに注目させようとしていた戦略は、非常にリスクがあるように思われる。万事良好な状況では手柄を独占できるかもしれないが、反対に逆風が吹くなかでは一切の責任を負わざるを得なくなるからだ。閣僚に結果主義を推進し、通信簿までつけると言うのなら、辞任もしくは下院解散・総選挙など、自分に対しても何か課してみるのがいいだろう。

バディウの書が出版されたのは10月の末であったが、その頃は今とは全く異なる雰囲気のなかにあった。大統領就任して半年ぐらいのあいだは、批判・反対意見がほとんどメディアに現れないほど、一切がサルコジの思惑通りに進行していたような勢いがあった。慢性的な「事なかれ主義」に浸っていた精神状態を立て直すため、本来ならば首相がやるべき事柄も自らが引き受け、人一倍働く大統領のイメージをあらゆるメディアを通じて形成していたわけである。問題があるところに真っ先に姿を現すサルコジの動向に、挙って追従する報道関係者らは、まるで芸能リポーターと代わり映えがしないようだった。どこに行ってもサルコジの話題ばかりでうんざりしていたあるメディア団体が、9/10には「サルコジ報道ボイコットの日」を11/30に決行することを呼びかけることになる。一方で、サルコジが着々と改革を進めている間、敗戦ムードから抜け出せない左派は、野党としての役目を議会で果たせずに、それぞれの党内部で生じた諸問題を解決することに追われていた。特に、サルコジによる自党からの引き抜き戦略などによってもっとも打撃を受けた社会党の混乱ぶりは激しく、党を団結させる明確な政治指針の喪失からリーダーの不在も相まって、少なくとも三つの派閥に分散している状態が未だに続いている。「この国に野党は存在しないのか。社会党は何をやっているのか。」と、新政府の改革に反対する市民からの怒りの声が各方面から挙がるようになったのも、ちょうどこの時期である。バディウの問題の書は、左派支持者にとっては、サルコジに完全に翻弄されていたメディアや、お家騒動の方に忙しい社会党に対してなかば呆れかえっていたときに出版されたために、陰鬱な状況を打開する起爆剤のようなものとして、すぐさま熱狂的に受け入れられることになったのである。
11/3にはジャン・リストがユマニテ紙(前出の対談とは別記事)から、11/6にはパトリック・ベッソンがル・ポワン誌から、それぞれ好意的な書評を書くことになる。着実に読者数を増やしているバディウの問題作は、すでに20000部売れ、現在も増刷しているようである。この手の書では異例の部数で、出版社以上に本人も驚いているということは、どこかの記事に書かれていた。「サルコジ」というお題で書を出せば、どんなものでも売れるなどという、他人の成功に対する妬みからなのか、冷めた意見を耳にすることもあるが、ここではサルコジその人が問題ではないので、その他諸々のサルコジ本と同じようには扱えないだろう。いずれにせよ、これだけ反響を呼べば、内容自体にはまったく無関心な陣営にとっても、黙殺しておくことは出来ない現象というわけである。最近ではフィガロ紙までもが、おそらくバディウが考える「ねずみ男」の代表格セルジュ・ダッソーによって、何か書評めいたことを書いておくよう命じられた次第である(1/17)。書評とは名ばかりな悪意ある批判は、ネット上でも多く見かけるが、その大半は、少しばかり挑発的なバディウの語法に噛み付いているだけである。サルコジとその仲間たちを「ねずみ」呼ばわりしたとか、フランス的例外の創造的運動のもう一方の極には「ペタン主義」があると診断しているとことがスキャンダルということだ。また、五年毎の一大政治イベントに大衆が熱狂しているさなかに「棄権票」を訴え、「未来はコミュニズム」などと宣言していること、さらにはそういったドグマ的テーゼを、将来の上級官吏育成機関でもあり、国が誇る最高学府・高等師範学校(ENS)の連続セミナーで展開していたこと自体、スキャンダルであると批判する者もいる(11/28)。(本書はENSのセミナーをもとに編纂されたものである。)どうもたんなる非時世的な老哲学者の戯言では済まされない、寛容の閾を超えてしまったということだ。
しかしながら、人間のある主体性の形態を動物に喩えること自体、それほど騒ぎ立てるようなことではないだろう。哲学者とはまったく異なる目的からであるが、人間の生を動物のそれと同じように扱うことしか知らないような政治家の方がもっと批判されるべきである。例えば、先の国鉄職員など一部の労働者らに対する特別年金制度の改革の折に、うんざりするほど聞かされた、平均寿命が延びたとか、一般制度の積立期間が40年なのに37.5年は不平等だとか言ってみることが、人間の生にとってどれほど価値があるのだろうか?サルコジの息のかかったマスコミも、今回はかなり煽っていたせいもあるが、政府の改革に賛同していた多くの市民も共犯である。任意の数字を引き合いに出すことで、改革の正当性を立証しようとする政府のディスクールには、生も含めた一切は資本による均質化された時間によってだけに測定されるべきだという思想が、いたるところに見え隠れしていたのである。質的なものは考慮にいれず、生をただ数量的観点から一様に扱うときは、いつでも人間を動物として、あるいは畜群として扱おうとする意志があるのだ。これと比較すれば、哲学者が生物学的種としての人間をある条件のもとで任意の動物に喩えたりすることは、その目的から判断するかぎり、公平な仕方で事にあたっているだろう。ホッブスのおおかみ、ニーチェのロバなど、例を挙げたらきりがないが、哲学者はそうすることで、自分の利益を守るためなら人を殺すことも省みない生の在り方や、既存の権力に無反省にしたがう生の在り方などを、ただ嫌悪すべきものとして告発しているだけである。ここにおいては、おおかみもロバも、人間がそこへ向けて主体化するような到達点としてではなく、何か乗り越えるべきある通過点、それを超克することが真の主体化であるようなある臨界点として考えられている。バディウのねずみも、これらと同じ類であって、生存競争を超えたところで人間を形成する諸価値を創造できない在り方や、そういった諸価値に対して反動的な生というぐらいの意味で理解されている。このことは「倫理」のなかでは、たんに「人間という動物animal-humain」とか「死を免れないもの」とか呼ばれている。(いつだったか忘れたが、あるセミナーのなかでは冗談交じりに「レギューム」などと言っていた。)ここで「ねずみ」という特定の動物が登場する理由は、フランス産の人間なる動物が、フロイトの「ねずみ男」の症例にあてはまるからであって、それ以外の何ものでもない。例の幼少期から強迫観念に悩み、ケツの穴からねずみが侵入する妄想に駆られる男の話である。バディウが診断する「ねずみ男」も、フロイトの患者に劣らないぐらい激しい強迫神経症を患っている。それは社会保障の穴なのか?それとも移民の問題へと還元させているようなセキュリティーホールなのか?彼らの悩みは、制度上に穴という穴を開けつづけている「68年5月」という出来事であり、その出来事のうちで具体化した「コミュニズム的仮説」であり、さらには現在でもそれに忠実でいようとする亡霊たちである。

68年5月を清算しよう!このスローガンが投じられたのは、決戦投票を一週間後に控えた4.29の集会でのことだった。パリで行われる最後の大集会ということもあり、サルコジを支持する著名人や芸能人も多く駆けつけた。学生の時分に「舗石の下は浜辺」と叫びながら、権力の象徴に向けて投石していた者らもいた。68年との断絶だ!一次選の結果からサルコジ大統領の就任は、ほぼ当確と言われていたことを考えるなら、これは勝利宣言ともとれる発言だろう。これを聞いたねずみ男たちは、一気に元気をとりもどし、長年彼らを悩まし続けた強迫観念から解放されたと感じたのである。選挙期間を通して何度も力説していた内容を、左派のシンボルともいえる68年のもとで総括することで、敵陣をノックアウトすることに成功した。治安、失業、移民、教育、労働、医療、環境、住居、家族、アイデンティティ。。。フランス社会が抱えるこれらの問題すべては、68年の左翼的思想に拠るものであり、改革を望むのであるなら、今こそそれと断絶する必要があると、サルコジは言う。68年がすべてを台無しにしたとは、くそみそ的な発言である。そもそも68年とはどういった出来事なのか?管理社会に対する若者の反抗のことなのか?労働者によるゼネスト?あるいは、性の解放に代表されるライフスタイルに関する革命なのか?いずれにしても、これらの形態でもって表現されている、政治的なメッセージなどは、サルコジには興味ないことである。それが生起したことの理由や背景などは関心を示すことなく、ただねずみ男らが当然主張できると思っている権利が抑圧されている現状と、出来事がもたらした自分らにとって不都合ないくつかの帰結だけが問題なのだ。サルコジは言う。68年とは、それまで社会を秩序立てていた権威的なものの破棄、善悪を区別するために必要な指標を葬った事件であると。68年は、一切を相対化することに成功した、諸権威に対する反抗の名であって、あらゆる分野でモラルを低下させた、現代フランスにおける道徳退廃の零年であるということだ。でも、果たしてそうなのか?
ねずみ男らの言い分とは裏腹に、68年の出来事で重要となることは、善悪の彼岸の問題ではまったくないとバディウは言う。なぜならそれは、善悪の区別を明確にした出来事であるからである。この出来事は人民によって企てられた様々な政治運動の形態をともなって生起したのだが、これらすべての運動に意味を与えているもの、つまり出来事のなかを横断し、それを統制しているひとつの政治的理念を理解することが重要であると、バディウは言う。それは平等という理念である。TV対談でも強調されているが、この理念を思考するのでないなら、政治活動などまったく名ばかりであるとされる。したがって、もし68年の出来事から、何か政治的なものを引き出そうとするならば、平等という理念の相で、人々がそこに何を求めていたのかを理解する必要があるという。バディウによると、それは「ただ一つの世界がある」という「コミュニズム的仮説」の探求であり、諸々の状況を超えたひとつの世界への成員に主体化すること、それこそが68年の問題であったとされる。この仮説が要請する世界は、ねずみ男らが望んでいる世界とは相反するものであり、まったく妥協する点は見当たらない。それというのも、彼らが要求する世界は、まったく反対のこと、労働力から生産物を切り離し、人間のつながりをただ貨幣という抽象的な単位でのみ評価するような、物質的なものだけを通してコミュニケーションを強いる世界だからである。あるがままの状況を保全しようとすること、これを拒否するのがコミュニズム的仮説である。なぜなら、現実にある世界は、ルソーが言うような意味で、自然的な不平等が社会的な不平等へとそっくりそのまま保全されているような世界でしかなく、いたるところで分裂している世界でしかないからである。世界が分裂している現実は、何か人類の必然的な運命であるとでもいうような保守的な態度に、コミュニズム的仮説は真っ向から対立するのである。したがって、ここから政治的に保守ということは、どういう意味で理解されるかという、ひとつの帰結が引き出される。あるひとが保守的であるといわれるのも、既得権などを自分の利益のために保持することを要求する人というだけでは、いまだに不十分である。そうではなく、自分らの利益が確保されるためには、これまで通り世界が分裂している必要性を、ひとつの前提として要求する者のことを言うのである。それは、生きるためには仕方なくフランスに来る移民に対し、まるで別世界から訪れた厄介者のように扱ってみたり、世界で起こる問題の数々が、自分がいる世界とは異なることろで起こっていると見なすような態度にも表現されている。なぜ別世界なのか?分裂なのか?自分に対してそう言わせているものは何なのか?世界は一つなのか?結局、政治とは二つの問いの関係のなかでのみ成立する、ひとつの有意義な活動としてしか規定されないだろうと、バディウは言う。それは、われわれはどういった世界にいるのか?という状況を分析する問いと、どういった世界を望むのか?という規範的な問いのあいだでの活動であり、一方から他方へと移行させるような手段を思考し、実践するような主体化のひとつの形態でしかないという。政治にとって重要なのはいつでも平等という理念であり、それ以外のものはなにもない。なぜなら、理念としての平等が、まさに政治活動を規定する問題であるからだ。
してみれば、コミュニズム的仮説の放棄、68年の清算は、政治そのもの否定であるとも言える。このことはモラルだろうが、新年の記者会見で掲げた文明だろうが、何を引き合いにするのも勝手だが、政治というものが人間を畜群化するための権力の行使などと、いまだに真面目に考えている連中には理解されないことである。国内の不安定な状況を、自分らのことは棚にあげ、それに先行する人民の運動へと転嫁すること。また、この状況の打開策を、ひとつの時代を支配しているもっとも権威的なものへと、モラルを掲げることでコミットすること。さらには、他の国もしているのだから、自分らもそうしない理由は見当たらないと言ってみること。これらすべてが「サルコジ」の名に集約される現象で、バディウが「ペタン主義」と呼ぶものである。フランス革命に対する1815年の王政復古、フロン・ポピュレールに対するヴィシー政権。これらに共通することは、先行する出来事の否認、反動でしかないとバディウは言う。グローバリゼーションが進行する現在、市場原理を重視しない経済システムを擁護しないわけにはいかない。さもなければ、フランスは国際経済の舞台から遅れをとり、ますます世界から置いていかれるだろう。ねずみ男以外に誰がこんなことを信じるのか。「68年5月以降、政治の舞台からモラルという言葉は消えた。今ことモラルについて語るべきだ」などと、大それたことを唱えるサルコジが、大統領就任後にこれからの時代はしかるべきだと示しているお手本は、ヨット、ローレックス、トップモデルという類である。彼が口にするモラルとは、働いて金を稼ぐことが最大の美徳であり、資本主義の価値体系で通用しているものを人より多く所有することが成功というわけだ。「私は人一倍働いた」は、サルコジの口癖である。こういうことは、歴史が裁定することであって、後に、誰かが伝記のなかでその人の偉大さを称える言葉でないのか。たかが40年ぐらいの歴史を切り取ってきて、「断絶」などと偉そうに言ってみたところで、君主制や寡頭制など歴史的にももっと古い体制下へと、逆戻りさせているのが現実なのである。
結局、ねずみ男とは、株価の動向だけを気にしている連中や、富を築き上げることの美徳を公然と口にすることが可能になることに喜んでいる連中ぐらいの意味でしかない。一度は68年で悪の側に追いやられた連中のことである。フランスにおけるねずみ男の心理がどういった状態であるのかを知るには、実際に彼らが語っていることを聞いてみるのが一番である。現在それについて語らしたら、おそらくセルジュ・ダッソーの右に出る者はいないだろう。 UMPの上院議員でルベイユ・エッソン市長も兼任するダッソーは政治家としてよりも、むしろミラージュやラファールなどの戦闘機で有名な、軍需産業を母体 にするダッソーグループの総帥として世間には知られている。2004年にはフィガロ紙やレクスプレス誌(これは後にベルギーのメディアグループ「ルラータ」に売却)をはじめ、ヴォア・デュ・ノー紙(2005年に売却)やル・プログレ紙など複数の有力地方紙を傘下におくメディアグループ「ソクプレス」の株式を87%(2006年に100%)取 得することで、有力メディアをコントロールする長年の夢を果たすことになる。メディア業界への参入にいたるまでの経緯、プロパガンダとしか言えない彼のジャーナリズム観についてのダイジェストは、以下のサイトで読むことができるが、どれをとってもフランスにおけるねずみ男ぶりを発揮している証言ばかりで圧巻である()。ここでダッソーが語っていることは、そっくりそのままサルコジの選挙演説のテキストへコピペされていることは、後になって明らかにされることである。問題になっていることは、やはり「68年の清算」ということである。
まずダッソーによると、メディアというものは「健全な思想」を市民に対して伝達する使命があるとされる。この健全な思想とは何を隠そう、市場原理を尊重した自由経済主義を支持する思想でしかない。反対に、不健全な思想と彼が呼ぶものは、連帯や保障を重んじるフランスにおける社会主義経済を擁護する思想ということである。フランス経済の停滞は、すべてこの不健全な思想が原因ということだが、それに馴らされている市民よりも、むしろメディアの責任であると言う。ダッソーによると、不健全なものを健全であると報じているメディアは、市民を騙すことにしか役立っていないようで、それはちょうど地球の周りを 太陽が周っているとほざいているのに等しいとまで言い切る。68年的転回からの更なる転回。これを実現するためには、メディアの在り方をまず変革すべきであり、ただ保守派が政権の座に就くだけでは十分ではないと、ダッソーは知っている。改革のなかでも特に困難とされる、労働あるいは教育に関する法を少しでも修正しようとするならば、「天動説」を信じる組合、労働者、若者らの猛反発に合うことは68年以降、周知のことである。来るべき諸改革を彼らに受け入れさせるために、まずは脳内革命から着手するべきであるが、それにはメディアの力が必要なのである。さもなければ、いつまでたっても、やれストだ、デモだと言って、政府に楯突くことしかしないのであると、ダッソーは言う。例えば、35時間法については、次のように言う。「既得法だって?そんなわけないでしょ。あれはフランス経済の癌ですよ。」とりあえず、35時間法は破棄すべきものということだが、労働のモラルを低下させている法、雇用者だけに有利に機能している法は、すべて改革すべきであると主張している。そもそも仏労働法は、企業主に不利なものがあり余っているらしい。そのことは、企業が負担する社会保障費が高いことや、それに加えて簡単に解雇できない法が多くあることからも明らかだと言う。こういうことは、コングロマリットの下請け、あるいはそのまた下請けをやらされている中小企業主(彼らも搾取されている)が言うならまだしも、フォーブスの世界長者番付の常連で、国内でも上位5番に毎年入る資本家から 説教される筋合いはない。始めから必要なくなれば一方的に解雇することができる条件下でしか、人を雇えないということはどういうことなのか?他の国でもやっているからと、ペタン主義のダッソーは言う。こういったこと真実として、メディアはもっと積極的に報じなければない。それは時代が要請することであり、68年とか革命とかのノスタルジーに浸っている場合でないということだ。さもなければ、自分がパトロンになって、ジャーナリストたちを教育し直すと言いのける。その結果が、巨大な資本を貢ぐことで実現した、フィガロとの結婚というわけだ。
ねずみ男に説教されるジャーナリストらも気の毒であるが、冗談では済まされない事態に、フランスのメディア界は直面している。フランスで最も視聴率を取っているTF1は、ブイグ(土木・建設)が87年から筆頭株主としてコントロールしている。最近では、ラガルデール(防衛・航空)は書籍流通の約 7割をコントロールするアシェット*を買収したほか、ボロレ(製紙)は映像製作会社や世論調査機関、広告代理店や無料新聞などに積極的に出資している。このように、元来メディアとは関係のない母体をもつコングロマリットによる情報企業の買収劇は、ダッソーに限られたことではない。互いに似たようなプロフィールをもつ数人の人間によって、飽くなく演じられているわけである。今から77年前に、マラパルテというイタリア人著作家が、フランスで出版した「クーデタの技術」 という一冊の書がある。近代国家に対してクーデタを確実に成功させるための普遍的な必勝法を、ロシア革命などいくつかの例を挙げながら展開している理論書であるが、このなかで彼は、議会や官公庁などの一国の象徴的空間を闇雲に攻め占拠しても不十分で、まずは情報・通信・交通網などのインフラをコントロールすべきであると言っている。ナチスが台頭してきた時代で書かれたこの理論書は、すでに古典的な部類の理論である。しかし古典的と言われるのも、クーデタのテクニックとして述べられていることが、非常に効果的なものと認めれているゆえに、逆に、対クーデタ策としてそのまま応用されているという理由からである。大統領選出が一斉に報じられた数時間後、サルコジはシャンゼリゼのフーケッツへと移動した。そこには、財界の大物、業界人、次期入閣組など50名ほどのコラボらが招かれていた。なぜかラガルデールの名前は見当たらないが、ダッソー、ブイグ、ボロレがそこにいないわけがない。彼らが何を話していたのか詳細までは知らないが、完全に68年を清算するためのメディア戦略についてだろう。それはサルコジ大統領就任後の、メディアの在り方からも想像できることなのである。

ねずみ男の強迫神経症は、フロイトが紹介するいくつかの症例のなかでも、治癒に成功した稀な例であると言われている。フランスのねずみ男らも、徐々に快方に向っていると感じている。ただこの場合、治癒されるということはただ次のようなことを意味するにすぎない。それは、彼らの主張が妄想ではなく、「常識」として通用するようになること、国家の公式言語になるというぐらいの意味である。ねずみ男に同化するか、それとも少なくとも2012年まで続くペタン主義下で鬱状態でいるべきなのか?それとは別の選択、第三の道があるだろう。「無力を不可能なものへと引き上げよう」とバディウが言うとき、68年の有名なグラフィッティのことを少しは考えているかもしれない。「リアリストであれ、不可能を要求せよ。」今年は68年から40年経つが、清算を唱えるねずみ男らも、関連商品で一儲けすることを狙っているだろう。しかし、彼らには決して商品化されない68年の政治メッセージは、いつも自分の大事なところにしまっておけと、バディウは言うのである。

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Rue89は元リベラシオン紙の記者らが、昨年の大統領本選が行われた日に立ち上げた、最近話題を呼んでいるニュースサイトである。グーグルのアクセス解析によると、昨年の12/11から1ヶ月の間には、のべ100万人のアクセスがあったと報告されている*。WIKIを見ると、サイト名にもある89という数字は、フランス革命 (1789)やベルリンの壁崩壊(1989)の歴史的年号に由来すると書かれている*。サルコジが政権の座に就いてからというものの、主要メディアの(自己)規制が問題にされ批判されるなか、第四権力としてのメディア本来の役割を保持しようとしている稀な存在である。大統領本選の日に、セシリアが投票所に 足を運ばなかったことを公表したのもRue89であった。それはサイトを立ち上げて、1週間後のことだった。セシリア棄権票の件は、元々JDD(ラガルデール資本下の週間紙)が最初に掴んでいたようだが、報道することを見送ったと言われている。
ネットの普及や無料新聞の影響などにより、経営が軒並み悪化している新聞業界は、企業広告はもちろんのこと、外部から資本援助を受けずには存続できないところが殆どである。それと同時に、経営面で自立性を失った新聞社が、どこまで社外からの干渉を排除し編集の独立性を維持できるのかという疑問の声もあがっている。広告も含め、外部資本からの独立を維持することの重要性は、ジョレスがすでにユマニテ紙創刊号のなかでも強調していることであり(1904/4/18)、またリベラシオン紙の創刊に携わったサルトルにとっても同じである(1973/4/18)。創始者らは想像もしていなかっただろうが、ユマニテ紙は2001年にTF1(ブイグ)とアシェット(ラガルデール)に合わせて20%の資本の売却をしている。リベラシオン紙は、すでに93年から外資を受け入れており、3年前からロッシルド筆頭株主である。尚、ル・モンド紙は、経営不振が深刻化した2004年に増資によって、外資を受け入れることになる。現在のところ40%の資本は外部によるものであるが(ラガルデール17%-プリサ社15%-スタンパ3%)、昨年度の赤字に加え、1.5億ユーロにも膨れ上がっている経常赤字から、再建に向け新たに増資が必要となるようである*
報道界の現状に不満を覚えるジャーナリストは、Rue89のようにネットへと移動している。3/16から元ル・モンド紙の編集長でもあったエドウィー・プレネルが中心となって、MediaPartというサイトが本格的に始動する。現在のところ準備期間中で無料で閲覧可能。3/16からは会費制。あとは、シュナイダーマンのArrêt sur images*など(有料)。

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AB---(資本原理によって支配されるような世界とは)まったく別のタイプの集団的組織化が可能であるという考えを維持することです。労働における非道な不平等と専門・細分化という資本主義形態が、あたかも人間性の必然的かつ永続的な運命であるという考えに対して、NONと言える強い肯定ということです。・・・コミュニズム的仮説とは何かについて。




AB---サルコジが何を盾にするのは本人の勝手ですが、「文明」ということだけは勘弁してもらいたいですね。。。思うに、サルコジは無教養な人間ですよ。彼特有の野蛮さというものがあるのですが、金、見せびらかし、ヨット、トップ・モデルなど、どれを取っても野蛮さの現代版ですね。・・・エドガー・モランから借用した「文明の政治」を、2008年度の政治指針として記者会見の場で述べたサルコジをどう思うかという質問に対して。



スレッド:フランスの政治と社会 / ジャンル:政治・経済

2008.02.18[Mon] Post 04:12  CO:0  TB:0  政治  Top▲  このエントリーを含むはてなブックマーク 

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